展覧会

16箱の謎 《よみがえれ!シーボルトの日本博物館展》

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昨日、江戸東京博物館で開催中の《よみがえれ!シーボルトの日本博物館展》へ

行ってまいりました。

 

出品リストを見ますと(前期・後期合わせて)289の展示がある、と。

し、しまった。

ギリシャ展並みの多さだった。

 

でもまぁ、2時間あれば見られるだろう。

それから汐留へ移動して別の展示を見て……

 

 

甘い。甘い。甘い。

いつも以上に甘かった。いつも甘いけれど、それ以上に甘かった。

 

結局3時間半。

まぁ、最初は図録を購入しないつもりで(すみません、図録の予算も置き場も

なくなってきてるもので)メモを多めにしつつ見ておりましたもので。

展示だけを見ていたら、そんなにはかからないかもしれません。

 

でもでも、すごく説明が丁寧だから!点数も多いし!!

200点を越えたぐらいのところで、見知らぬおばさまが

「ちょっと、目がつかれてきちゃったわ~」と言うので、思わず笑って

しまいました。

分かります、分かります。丁寧に見ると、ちょっと休憩入れながらじゃないと

疲れますよね。

 

なので丁寧に見るなら、お時間いただきたく!?

 もしくは、前期・後期と2回見に行ける余裕があれば。

 

というわけで、今回は展覧会の内容というよりは展示を見て、その後に

図録を読んだりして思ったり妄想したシーボルトさんについて書こうかと。

 

 

 

この展示を見るまで、私の知っていることと言えば

シーボルトさんはお医者さんである

シーボルトさんは日本の植物とか標本を集めてた人である

以上。

 

なので、展示の一番最初の説明パネルに”シーボルト事件”、とか”日本人女性との

ロマンスで有名”とか”2度にわたって来日”などと書いてあって。

むむ。

私ったら、シーボルトさんのこと一般常識以上に知らない気がする、と。

むしろ、薄っすらハッキリと気づいてはいたけれど全く知らないじゃないか、

すみません、と。

 

でも、そんな私にもシーボルトさんの人生や、やり遂げたかったことを分かりやすく

説明してくれ、それを踏まえつつ大興奮しながら見た展示の数々。

面白い、面白すぎる。

 

動植物の標本の実物展示はありませんが、公式ホームページの《みどころ》に 

siebold-150.jp

 

”日本人のくらしを閉じ込めたタイムカプセル”と表現されていますが

まさにそれ!その言葉ピッタリ!!と感じました。

当時の生活を切り取ってきたかのような、衣食住に関するものから絵画、

玩具、楽器、仏具などなど。

 

一体、どうやって収集したものを管理していたんだろうか?!と。

どれを収集したか分からなくなったりして、うっかり同じようなものを

購入しちゃったりしなかったんだろうか?!と。

そして、こんなにも彼を魅了した当時の日本へ行ってみたくなりました。

 

シーボルトさんが1度目に来日したときは、まだ鎖国中だったそうで。

30年後に再来日したとき開国5年後だったものの、日本の暮らしは

急激には変化していなかったのではないだろうか、と図録にありました。

つまり、手つかずの日本というか。なんだか表現が変ですが。

日本独自の文化が、より色濃く残っていた時代にシーボルトさんは来日された

ことになるのかなぁ、と。

 

今の私がタイムスリップできて、さぁこの時代の文化にまつわるものを

収集しなさい!って言われたら。

一体、どんなものを収集するだろうか、などと妄想しながら見ていました。

きっと偏るだろうなぁ。

 

シーボルトさんは、日本の人たちの協力もありつつ、日本という国、その精神を

モノを通してオランダやドイツ、ひいてはヨーロッパの人たちに紹介しようという

なんだか、とてつもなく壮大なことに挑戦したんだなぁ。

あ、それが博物学とか民俗学になるんでしょうか。

ちょっと、その概念がよく分かっていないのですが。

 

それにしても日本を愛してるなぁ。愛しすぎてるなぁ。

何か彼の心を強く揺さぶる、彼の気質に合ったものが日本にあったんだろうなぁ。

なぁなぁ言ってますが。

 

一度目の来日中、日本女性タキさんに惚れて一緒に生活するようになり

そのことを手紙で家族に知らせているシーボルトさん。

 

娘のイネさんも生まれ。

家紋の代わりにシーボルト家の紋章入りの着物を着た幼いイネさんの

肖像画が展示されていました。

実際に紋章を入れた着物を着ていたのか、肖像画を描くときに描いて

もらったのかは不明ですが。

 この肖像画長崎市シーボルト記念館所蔵”シーボルト妻子螺鈿合子”の

原画になったと推定される、と説明にありました。

 

はて、シーボルト妻子螺鈿合子”とは??

 

コチラのページで合子の絵が見られました。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト関係資料 文化遺産オンライン

長崎県の文化財

ふむふむ、なるほど。

どうやら嗅ぎタバコ入れの蓋に奥さんと娘さんの姿が螺鈿細工で

表されているようで。

シーボルト妻子像螺鈿合子の展示替え « 愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』

この写真を見る限り、かなり大きさがあるようですね。

 

  

任期終了のため日本を離れる間際に、禁制品である日本地図を持ち出そうとした

ことが判明し、日本を追放されることになったシーボルトさん。

そうか、これが”シーボルト事件”なのかとようやく合点。

 

荷物を乗せた船が台風で座礁し、その荷物の中から禁制品が見つかったとか

密告されたんだ、とか説があるようですが。

今回の展示では、密告説には触れられておりませんでした。

 

奥さんと2歳の娘を残して、もう二度と日本には戻れないかもしれないという。

その時の心情はいかばかりであったでしょう。

 

でも、幕府に没収されたはずの日本地図は持って帰っていたという。

やるな、シーボルトさん。

それは、見つかることを見越してのコピーだったのか。

もしくは、長い船旅で無くなることも考えてのコピーだったのか。

 

それにしても、コピー機もない時代。

細かく書き込まれた地名、入り組んだ海岸線。

これをコピーするだけでも、相当な日数がかかりそう。

つまり、入手したのは出国予定よりかなり前ってことですよね??

(不確定ですが、没収されるまでに時間があったのでコピーできたとの

記述も見かけました。はて、没収せずに軟禁だけしてたってことが

あったのかどうかとも思ったり)

 

この日本地図をシーボルトさんに渡した高橋景保(かげやす)さん。

シーボルトさんに渡したのは、当時一般の人でも入手できた地図

「石水之図(長久保赤水という人が作った”改正日本輿地路程全図” )」であって、

伊能忠敬が作った「大日本沿海輿地全図」じゃありませんよ!と幕府の

取り調べには答えたと。

 

長久保さんの地図は、こちらで見られます。

古典籍総合データベース

ところで、なんで「石水之図」って呼ばれてるんでしょう??

 

伊能さんのは実測地図で、きわめて正確なことから幕府によって厳重に

管理されていたとか。

 

それに対し、長久保さんの地図は伊能さんより42年以上前(!!)に出版。

日本人が出版した日本地図としては初めて経緯線が入った地図で、

20年以上考証を重ね、伊能さんの地図にはかなわないけれど当時としては

かなり正確な地図だった、と。

Wikipediaを読んで、そう理解しております。

 

ただ、伊能さんの地図でしか分かり得ないようなことが書いてあった地図を

シーボルトさんは持っていたのでありましょう。

というか、シーボルトさん側の持っていた資料の調査から、伊能版地図だった

ことが裏付けられたそうで。

 

シーボルトさんは国外追放、地図を渡した高橋さんは獄死、そのほか

オランダ語通訳をしていた方々などが処分を受けたそうで。

 

自分が出国しなければ地図の情報は洩れないわけで、そのまま日本に残ることを

希望したという話も読みました。

その後に娘のイネさんにおこったことなどを考えますと、その方がご家族や

本人自身にとっても幸せだったような気もします。

ただ、幕府としては何をしでかすか分からないという気持ちもあったでしょうし、

そのまま日本に残っていたら、あの収集品の価値が分かる人、紹介できる人が

ヨーロッパには不在なままだった訳で。

 

うぐ。人生って、人生って。

 

日本を離れてから16年後、シーボルトさん49歳の時にヘレナさんと結婚。

翌年、長男が誕生。その6年後に二男、その2年後に三男誕生。

(図録には書いてありませんでしたが、ほかに長女と次女もいるそうで)

 

離日から28年後に処分が解除され、その2年後には再来日。

オランダの商事会社顧問という肩書だったそうです。

すごい行動力。

当時12歳だった長男ハインリッヒさんも一緒だったと。

 

展覧会ではイネさんとお父さん・異母兄弟たちとの交流については触れられて

いなかったと思うのですが、これまたWikipediaによりますと再来日した

お父さんに会えたようで。

また異母兄弟たちとも、どのタイミングかは分かりませんが会えたようで。

晩年はシーボルトさんの二男であるハインリッヒさんの世話をうけ、イネさんは

お母さんと暮らした、と。

 

 2度目の来日をはたしたものの、突如、幕府顧問を解雇されたことで再び

離日をすることに。しかも顧問になってから5か月ぐらいで……

 

その後のシーボルトさんについては、図録兼書籍に掲載されている

「書簡が語るシーボルト最晩年の日々」で。

 

 

これがまた。これがまた、切ない。

 

なんとか3度目の来日を果たそうと働きかけるものの……

なんとかコレクションをバイエルン政府に購入してもらおうと

働きかけるものの……

 

そして、シーボルトさんが何より案じていたという16箱の荷物。

荷物発送の知らせから10ケ月たっても届かない16箱。

そこには彼の大切な資料や原稿が含まれていたという。

 

息子ハインリッヒへの手紙には、そのことで夜も眠れないと書き綴って

あったそうです。

 

さまざまな心労と、展示会場の寒さも重なり、この世を去ってしまった

シーボルトさん。

さぞや、さぞや無念だっただろうと勝手に思うのでありました。

 

 せめて1つでも明るい材料があったなら。

せめて、その16箱が届いていたら。

それでなければ、せめて政府の買い上げが決定したら。

書いても仕方ないのですが、書かずにはいられない。

 

結局、その16箱の行方は今も分からぬままだそうです。

どこかで見つかったりしないですかねぇ。そんな奇跡がおこったり

しませんかねぇ。

 

父の訃報を、母からの手紙で知った息子ハインリッヒさん。

お父さんのお墓に、あることをしてあげて欲しいと手紙を書いているそうです。

それが、また、もう読んで泣いてしまいました。

 

明治政府の仕事をしつつ、父の想いを受け継ぎコレクション目録を作成するなど

 お父さんも嬉しかっただろうなぁ、とまた勝手に妄想。

 

 と、まぁ長々書いてきましたが。

 

ふと、シーボルト事件っていつ起きたのかな?と思ったら。

シーボルト事件のきっかけとも言われている台風が起きたのは9月17日で、

長崎に上陸したのは翌日9月18日。

 

そう、昨日は9月18日。

”台風がきっかけで地図が見つかった説”が正しいのであれば、ある意味、

シーボルト事件の日。ある意味ってのが意味不明だけれど。

 

そうか。

だから、こんなにも熱くシーボルトさんのことを書いてしまったのか…??

だから、ってのも意味不明だけれど。

 

と、シーボルトさんの収集品以外でこんなにも熱く語ってしまいました。