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英雄たちの選択【よっ!国芳~江戸っ子に愛された浮世絵師~】

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

録画したまま見ていない番組が沢山ありまして。
ありすぎまして。もう、どうしていいか分からないけれど、とりあえず溜めて溜めて、ために溜めて、ようやく1つ見ました。

『英雄たちの選択』という番組で、歌川国芳のことを取り上げたのは2017年10月だそうです。ははは。でも面白かったので感想をメモしておこうと思います。

『英雄たちの選択』とは?

2020年3月現在は、水曜日20時からBSプレミアムで放送中。

日本の運命を決める岐路に立った英雄たち。その時、英雄たちは様々な選択肢の中から、たったひとつの「選択」を行う。
なぜ英雄はそれを選んだのか?その「選択」の背景には、信念や賭け、勝算や打算など、どのような人生経験や価値観が影響していったのか?そしてその「選択」は、後世にどんな影響を残していったのか?
この番組は、歴史学・軍事学・心理学・経済学など、様々な分野の専門家たちとともに、英雄たちの心中に深く分け入り、新しいアプローチで日本の歴史を描きだす歴史教養番組です。

 

出演者

  • 磯田道史さん

歴史学者、映画『武士の家計簿』や『殿!利息でござる』の原作者。

  • 杉浦友紀さん(NHKアナウンサー)
  • 語りは俳優の松重豊さん

磯田さん、杉浦さんに加え、毎回ゲストを加えて進行する形式になっているようです。

ただし、2017年の時点では渡邊佐和子アナウンサーが担当されていたようです。

 

歌川国芳について

ざっくりとした年表

時 代 出 来 事
寛政4(1792) キリル・ラクスマン 根室に来航
寛政9(1797) 江戸日本橋に生まれる。父親は染物屋を営んでいた。
文化元年(1804) ニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフ 長崎に来航
文化5(1808) フェートン号事件
文化8(1811) 15歳ごろに初代歌川豊国に認められて入門
(12歳のときに描いた鍾馗図が豊国の目にとまったのがきっかけとか)
北斎、広重、兄弟子・歌川国貞など優れた浮世絵師が多く、なかなか注目されない時期
文政8(1825) 異国船打払令
文政10(1827)頃 大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』が評判となり、”武者絵の国芳”と称される。国芳30歳ごろ。
文政11(1828) シーボルト事件
天保4(1833) 天保の飢饉
天保8(1837) モリソン号事件
天保10(1839) 蛮社の獄
天保12(1841) 天保の改革はじまる
天保13(1842) 天保の改革で浮世絵の題材も制限を受ける
ここで国芳は、どんな選択をしたのか?
文久元年(1861) 65歳で死去

 

国芳が生きた時代は、どんな時代だったのか?

1800年代に入った江戸はパリやロンドンを凌ぎ世界一の人口を誇っていた。100万の人々のエネルギーが満ちた大消費都市。

生活が豊かになった庶民は芸能や文芸など様々な娯楽で生活を楽しむようになった。

この時代、売れに売れたのが浮世絵。浮世絵は庶民に最新の情報を提供するもので、現代でいえば広告。役者絵は歌舞伎の興行を宣伝し、美人画はいわばファッション雑誌。流行の着物や化粧を伝えた。

浮世絵の人気を支えたのは分業による大量生産。

出版社である版元がヒットするであろう題材を絵師に発注⇒絵師が描くのは浮世絵の下絵。題材をどう表現すれば買い手の心を掴めるのか?が腕の見せどころ⇒絵師が描いた下絵を元に彫師が版木を彫る⇒摺師によって色が何色も重ねられる。

こうして大量に制作された浮世絵は、かけ蕎麦1杯分の16文(約350円)で手に入るメディアとなった。

国芳の足跡

寛政9(1797)、江戸の中心だった日本橋に生まれる。

向島にある三囲神社には、国芳の死後、弟子によって建てられた石碑があり、そこに「12歳の時、鍾馗図を描いてそれが歌川豊国の目にとまって弟子入りした」旨が書いてある。

彼の人柄を知る資料としては飯島虚心の『浮世絵師歌川列伝』という本がある。そこには

活発で男気があり、小さいことにはこだわらない。いわゆる江戸っ子気質

なるほどねぇ。絵のイメージと変わらない感じで安心?しました。

資料には「其日に消費して」という文字も見えました。まさに、宵越しの金は持たぬタイプだったのかしら?!

 

火事と喧嘩は江戸の華。国芳は火の手があがれば火消しの男たちと共に消火に駆けつけ、鳶の半纏を着て町を練り歩いたとか。

うわー!!去年、東京都美術館で開催された【奇想の系譜展】で、この絵を見てたのかー!!この番組をもっと早く見てたら、ああ!って感激ひとしおだったろうになぁ。「へー、火消しかぁ」で終わってしまったー!!

ま、それはさておき。

ところが、絵師としては鳴かず飛ばずの国芳。当時は兄弟子の歌川国貞が役者絵や美人画で、葛飾北斎が風景画で名を馳せていた。そうしたライバルたちと同じ絵を描いてもまったく売れない。

31歳になったとき、ついに人生を変えるテーマと出会う。それが”武者絵”と呼ばれるヒーローたち。

題材は中国小説『水滸伝』。108人の豪傑が悪徳官吏を倒す冒険譚。

歌川国芳『水滸伝』『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人 浪裡白跳張順』

 

国芳は水滸伝のヒーローたちを圧倒的な迫力で描ききった。浮世絵で、こんなにも鮮やかな彫り物(入れ墨)を表現したのは国芳が初めてだったとか。そして、国芳の武者絵を真似て彫り物を入れる男衆が現れたそうで!!当時は、紋々(もんもん)という呼び方だったのかしら。

武者絵で地位を確立するも、国芳の興味は西洋画に興味を惹かれていたようで。どこから手に入れたのか数百枚の西洋画を所持していたとか。

西洋画は真の画なり。余は常にこれに倣はんと欲すれども得ず。嘆息の至りなり。

と知人に語っていたそうです。(出典:飯島虚心著『浮世絵師歌川列伝』)

西洋画を模して浮世絵を描き始めた国芳。

『近江の国の勇婦於兼 (おうみのくにのゆうふおかね)』

躍動感のある写実的な馬の絵は、『イソップ物語』の挿絵を手本にしたのではないかとのこと。

『東西海陸紀行』のなかに描かれたオランダ領バタビア、現在のジャカルタの風景画

上記の絵を見て描いたのが

『忠臣蔵十一段目夜討之図 (ちゅうしんぐらじゅういちだんめようちのず)』

国芳が描き出す斬新な浮世絵は江戸の人々を魅了していった。

 

ボストン美術館で展覧会が開催された

2017年9月〜10月にかけて【Kuniyoshi and Kunisada】という展覧会が開催されたそうです。

そういえば、渋谷にあるBunkamuraザ・ミュージアムで2016年に開催された【俺たちの国芳 わたしの国貞】ってありましたけど、もしかして、同じものだったのかしら?!

国芳の作品

驚きの発想と風刺の精神で江戸っ子を虜にした国芳。

歌川国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』歌川国芳『讃岐院眷属をして為朝をすくふ図』

 

歌川国芳『相馬の古内裏』歌川国芳『相馬の古内裏』

 

歌川国芳『見立東海道五十三次岡部猫石の由来』歌川国芳『見立東海道五十三次岡部猫石の由来』

 

歌川国芳『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』歌川国芳『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』

 

1人の男の顔をよく見ると、裸の男たちが折り重なって顔になっている。

 

歌川国芳『其まま地口猫飼好五十三疋』歌川国芳『其まま地口猫飼好五十三疋』(そのままじぐちみょうかいこうごじゅうさんびき)

 

東海道五十三次の宿場町を猫の駄洒落で描いている。

歌川国芳 猫の駄洒落
日本橋は、”二本のだし”。

歌川国芳 猫の駄洒落

京は、猫に捕まえられて「ぎゃう」と鳴いてるとか。

国芳が、こういった作品を世の中に送り出すきっかけとなった大きな出来事とは?

 

天保の改革

水野忠邦水野忠邦(1794〜1851)

 

江戸時代後期、老中・水野忠邦が行った天保の改革。お上による贅沢禁止令は庶民たちを苦しめた。そして、浮世絵も厳しい規制の標的に。

描きたいものが描けない。厳しい制約をくぐり抜けるために取った国芳の行動とは?

 

 

磯田さんの国芳に対する想い

国芳はお好きですか?という問いに、「大好き!」と力強く答えてらっしゃいました。

「好きというか、国芳がいないと私が江戸時代を見る視界を塞がれた感じがあるぐらい、江戸を見る際には僕にとっては重要な画家です。なにせ画題も広いし、題材も広くてですねユーモアに溢れた動きのある作品が多いですよね。やっぱり千変万化する絵師で何でも広いから私は助かります。好きです。はい」

磯田さんのいう”天保エイジ”とは?

「幕末維新の志士たちは天保年期に生まれて、青少年期をそこでゆりかごのように育った人が多い」と。

天保4年 木戸孝允が生まれる
天保5年 福沢諭吉が生まれる
天保6年 坂本龍馬が生まれる
天保8年 板垣退助が生まれる
天保9年 大隈重信が生まれる
天保12年 伊藤博文が生まれる

なるほど。

「天保時代は(飢饉があったり、海外からの船がやってきたりと)不穏な時代だったけれども民の力も絶頂に上がってくる時代であって、天才も生まれるわけなんですよね。天保という時代はどんな時代なのかが分からないと実は日本近代の出発点が分からない。だから、それを象徴する画家として僕は国芳を是非紹介したいんですよ!」

なるほど、なるほど。

 

ゲスト1人目:松嶋雅人さん(東京国立博物館・学芸員)

国芳の展覧会はボストンだけでなく、パリやロンドンでも大展覧会が開催されていることから

「(国芳が生きていた)当時の江戸は世界に類稀なる大都会だったと思うのですが、その渡海で活躍した国芳のセンスというものが現代の都会の方々にも通じるものがあるのではないかと思ったりする」

ゲスト2人目:鹿島茂さん(フランス文学者)

「たぶんこの浮世絵をね、ヨーロッパの人が見たときにねビックリしたと思うね。なぜかというとカラーの版画ってのはね当時はよほど高いもの以外はなかったんです。すごい水準の高さ、特に色彩表現ね。それから細部の表現、分業のものすごさ。こういうものでいくと、やはり世界最高水準」

ゲストの好きな国芳作品”国芳この1枚”

いとうせいこうさんの1枚

歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一人花和尚』
『通俗水滸伝豪傑百八人之一人花和尚魯知深初名魯達(かおしょうろちしんしょめいろたつ)』

鹿島茂さんの1枚

『宮本武蔵の鯨退治』

「これを画面にこれだけいっぱい、もう隙間ほとんどないでしょ。三枚の綴りなんですけれども、このいっぱい感というのを、こういう風にした人、世界にもいない。これ宮本武蔵なんだけれども、どこに宮本武蔵いるんだって感じですよね。だからもうほとんど口実ですよね。鯨を描きたいから」

松嶋さんの1枚

歌川国芳『宇治川合戦之図』
『宇治川合戦之図』

「これは源平合戦のなかで先陣争いをする絵ですね。一面に緑地で宇治川が広く描かれています。大変ローアングルで描かれています。先ほど鹿島さんが選ばれた鯨の絵も三枚続きで横長の絵なんですね。実は今考えますとテレビも映画も横長の画面で、そのなかにこういったスペクタクルが現れるような絵を描きだしたというのが国芳の真骨頂だと思います」

 

いとうせいこうさん「江戸の頃の出版文化の面白は1つのサイズが決まるとそれを二ちょうにしたり三ちょうにしたりして自由に組み合わせて大きくしちゃったりするんですね。そのこと自体は、やっぱり西洋画でキャンバスで発展してきた文化とは随分違う。組み合わせ可能なことができるという、そういう強さを感じますね」

磯田さん「あと僕、自由を感じるのが、普通宇治川の先陣だったら武士たちが主人公なんだけど、これは水に無理やりつけられて向こうまで渡れと言われた馬こそが、馬の心こそが主人公なんですよ。馬の方の気持ちを描くというのはやっぱりすごいと思うんですよ。武士の時代にあって馬を描く。この時代、馬印がないから時代考証的にはちょっとダメなんですけどね」

馬印?

Wikipediaによると、馬印は戦国時代(15世紀末〜16世紀末)に戦場で武将が自分の所在が分かるように”馬側や本陣で長柄の先に付けた印”のことだそうで。源平合戦は1180〜1185年にかけておきたということで、なるほど、だから源平合戦の当時は馬印を使っていない、ということなんですね。

鹿島さん「これまず絶対的に言えることは複製芸術なんですよね。複製芸術って誰のためにあるかというと民衆のためにあるんです。つまり、一点物だと王様のためにあるんだけれども複製芸術だと民衆が相手なんですね。民衆っていうのは一体何が好きか分からないんですよ。これは困ったことでね。マーケティングしないと分かってこないし、当たったら大きいし、はずれたらものすごくだめって。だからこの時代が初めて民衆が顧客になってきて、顧客であり物言わぬ王様。極めて現代的な、江戸時代にこういう時代があったんですね」

磯田さん「大量にできるもんですから情報の発信力としては大きくなって、影響力も大きくなるわけですよね。だから悪いところ、見てはいけないところをですね載せて地方に配ってしまうメディアの誕生でもあったというところが、ちょっと権力の側とでは微妙な問題をはらんでくる時代であったとは思うんですね」

国芳にとっての西洋画

鹿島さん「この頃からね、東洋と西洋が絵の技法で(手をクロスさせながら)こういう形になってくるんですよ。日本の浮世絵などが入っていくと平らなフラットな表現ですね。西洋で、それはすごいということになって。日本では西洋の遠近法がすごいってことになってお互いがものすごいなぁ真似ようということになっちゃうんですね」

松嶋さん「国芳は忠臣蔵の世界を遠近法を使った西洋版画などの絵を移し変えて。テーマ、主題というのはそのままなんです。描写方法を新しく変えて目を引こうとしている。ただ、こういった写実表現あるいは陰影表現、遠近法が多く表れている国芳の浮世絵っていうのはあまりそれほど売れていない結果に終わっているようでもあります」

歌川国芳『忠臣蔵十一段目 夜討之図』

磯田さん「たぶんこれドカーンと顔の大きいのを前に描いたら忠臣蔵もっと面白くなったんでしょうけど、写真で撮ったような絵をやっぱりやってみたかったんだと思う。売れるかどうかじゃなくて、実験したいというところにこの国芳なり、国芳だけでなく(天保期)当時の日本人の庶民までの精神が僕あるような気がするんです」

国芳 選択のとき

河鍋暁斎『暁斎画壇』

後年、弟子の河鍋暁斎が描いた『暁斎画壇』より。

売れっ子絵師となった国芳は大勢の弟子たちに囲まれ、大好きな猫を傍らに浮世絵を描いている。

しかし国芳の順調な日々は長くは続かなかった。
天保年間に入ると大飢饉が発生し、全国で餓死者が続出。困窮した農民による百姓一揆や打ち壊しが頻発。

一方、江戸市中では質の悪い貨幣が出回ったことで貨幣価値が下がり物価が高騰。

年貢による収入が減る中で追い打ちをかけたインフレ。幕府は財政破綻寸前まで陥っていた。その対応に乗り出したのが老中・水野忠邦。

天保12年(1841)水野は厳しい改革を断行。

①人返し令
荒廃した農村を復興させるため江戸に移り住んだ人々を地方に追い返そうとした

②株仲間の解散
商人による同業者組合が物価を釣り上げていると解散を命じた

③高価な衣服・装飾品禁止、初物の売買禁止など庶民の贅沢を厳しく禁じ街から享楽的な空気を一掃しようとした。
2年に渡り200ものお触れが降り注いだとか。

  • 高価な装身具の禁止
  • 金銀具の所持禁止
  • 鼈甲(べっこう)の禁止
  • ぜいたくな菓子の禁止
  • 八寸以上の人形類の禁止
  • 富くじの禁止
  • 花火の禁止
  • 正月飾りの禁止
  • 彩色した凧の禁止
  • 彫り物の禁止
  • 女髪結の禁止
  • 小鳥飼育の禁止
  • 江戸城外堀での釣りの禁止
  • 混浴の禁止
  • 手の込んだ煙管の禁止
  • 堕胎の禁止 などなどなど

これが江戸の三大改革の一つ”天保の改革”。

改革は娯楽も対象となり、寄席の大半が閉鎖され、歌舞伎界のトップスター・五代目市川海老蔵は江戸から追放された。

天保14年3月、国芳は奉行所に呼び出され、ある念書への署名を迫られた。それは歌舞伎役者や遊女など、これまで浮世絵で描かれ続けてきた題材を一切禁じるというもの。

国芳は念書に署名せざるを得なかった。

さらに浮世絵は、出版前にかならず下絵を検閲されることに。役人の目を通らなかった浮世絵は決して世に出ることはない。

幕府からの圧力の中で、一体何を描けばいいのか?

選択肢1:得意分野で生き残る

得意な武者絵なら禁止されていないし、版元も安心して出版できる。

広重は得意分野の風景画で乗り切っていた。

選択肢2:新しい手法でくぐり抜ける

規制が始まる前に国芳が描いた『猫の百面相』。

Kuniyoshi - (fan) Making Faces Play by Cats (faces of cats in mirrors dressed as actors) -Act 7 of Chûshingura

表情豊かな猫たちの顔、実は歌舞伎役者の似顔絵。
国芳は動物を擬人化するなど題材をひねって描く試みを始めていたところだった。

この方法であれば、役者を描いても遊女を描いてもお上の目をくらませられるのでは?!

ただ、気になるのは40年前に浮世絵師にくだされた厳しい処分。

喜多川歌麿『太閤五妻洛東遊観図』

浮世絵で禁止されていた豊臣秀吉の立身出世物語を描いたとして人気絵師・喜多川歌麿が捕らえられた。入牢三日、手鎖五十日。鎖をつけたまま軟禁され、絵を描くことはおろか普通の生活さえもままならなかったという。

二年後、歌麿は失意のうちに命を落とす。

選択肢3:規制が緩むまで描かない

ほとぼりが冷めるまで浮世絵を描かない。しかし、そうなると弟子たちの生活が成り立たなくなってしまう。

さて、国芳の選択は?

 

国芳の選択

東京・日本橋にある創業400年のうちわ店。この店は、かつて浮世絵の版元を営んでした。

ここに国芳が天保の改革で描いた浮世絵が残されている。

国芳が念書に署名してから五ヶ月後に描いた『源頼光公館土蜘作妖怪図』。天保14年8月に出版。

平安時代の武将・源頼光が土蜘蛛妖怪と戦うという江戸では一般に知られた題材。

土蜘蛛のせいで病気になってしまった源頼光(一番右の人物)。その脇には家臣たちが控え、彼らの背後にいるのは50を超える妖怪たち。

歌川国芳

沢瀉(おもだか)という紋の着物を着ている家臣。当時の幕閣では沢瀉の紋の着物を着ていたのは水野忠邦だけ、ということで、この武将は水野忠邦。

この絵は天保の改革を皮肉る”判じ物(はんじもの)”、今で言う風刺画。

病に伏せるのは当時の十二代将軍・徳川家慶。周りを睨みつける水野忠邦。そして彼らを悩ます妖怪は、天保の改革で苦しめられた江戸の町民たち。

国芳は幕府の横暴に対する庶民の怒りを浮世絵で表現。

そう、国芳は選択肢2:新しい手法でくぐり抜けるを選択。

この絵は爆発的に売れ、どの妖怪が何を意味するのか街の人々が謎解きをする様子が『天保雑記』という資料に残されている。

歌川国芳

禁止された小鳥の飼育、初物、ギョロ目の妖怪は追放された市川海老蔵。

歌川国芳

国芳が、この絵を描いてから1ヶ月後の天保14年9月に老中・水野忠邦は改革の失敗で支持を失い罷免される。

しかし、浮世絵への規制が緩むことはなかった。

そこで国芳が新しい作品を発表。題材は禁止されていた役者絵。

歌川国芳『荷宝蔵壁のむだ書』 歌川国芳『荷宝蔵壁のむだ書』 歌川国芳『荷宝蔵壁のむだ書』『荷宝蔵壁のむだ書』

その手法は、なんと落書き!蔵の壁に書いた”むだ書”に見立てて江戸の人気役者たちをコミカルに描いた。

『亀喜妙々(ききみょうみょう)』は画面いっぱいに23匹の亀。

江戸の人々には、その表情と甲羅に描かれた家紋で誰がどの歌舞伎役者か一目瞭然だったとか。

 

遊女を描いた『里すゞめねぐらの仮宿』。

遊女や遊郭に出入りする客、すべての顔をすずめで描いた。

(ここまでくると、検閲しているお役所の人も面白くって、ついつい許可しちゃってるんじゃないですかね??規則には違反してないから、禁止にはできない、とか言っちゃって)

幕府の裏をかき題材の規制を乗り越え、庶民を楽しませた国芳。幕府はそんな国芳を警戒するように。

『市中取締類集』という資料によれば、町奉行に命じられ隠密が国芳を探っていたとか。

弟子も多く浮世絵界の大物であるにもかかわらず野卑な風体をしており、版元からの注文が気に入れば賃金の多少にかかわらず引き受けるが、気が向かなければいくら好条件でも断ってしまう。欲には疎い方(ほう)である。

 

国芳の風刺画と支える江戸っ子

いとうさん「まず第一にカッコいいという。それを褒められるリテラシーがあった江戸の町人がすごいって、まずね。判じてるあれが出版されちゃってること自体、本当はあれを規制すべきなんだけど、それが規制できない町人文化の高まりがやっぱあったということですよね。この時代の江戸の人たちは、妖怪とかが出てきた時に、いやこれは初物じゃないかとかなんとかじゃないかとか、褒めたり買ったりしたからこれが今残ってるわけだし、文化としてそれが成り立った、と。だから受け手がちゃんと参加しているということですよね。気持ちのクラウドファンディングみたいなもんでしょ、これ。ちょっとずつ皆んながお金出して(国芳たちを)食わせてんだもん」

鹿島さん「おまけに笑いっていうのが基本でしょ。笑いと風刺ですね。そうするとひとつの共同体じゃないと笑いってとれないんですよ。みんな知ってて、それを何か言うとドッと笑うという。意識の共同体というものが江戸時代を支えていたんですね。それがないと笑いって、例えば我々外国の映画を見ても全然笑えないでしょ?」

松嶋さん「身辺調査されている文言というのは、けなしてるんじゃなくてあれ褒めちゃってますよね。この風刺画を描いたことで今の我々でしたら幕府転覆とか体制をひっくり返そうというプロパガンダに繋がるような社会風刺になるかもしれませんけど、この時代国芳はさらさらそんなことは考えていませんよね。商品として町の人々が楽しむこと、度肝を抜くこと、面白がることを考えて、この風刺画を描いている。やはり役人の方(ほう)も浮世絵師の方(ほう)も実は色んな情報をやりとりしてコミュニケーションを取っているはずなので、あのここまでがギリギリというのもちゃんと分かって作品が作られている」

磯田さん「これは洒落や!洒落だ!っていうと、ある程度通るんですよ。ここがねぇやはり長く続く政権でねぇ、何となく住み分けられているんですよ。武士の世界と町人の世界が」

いとうさん「やっぱり洒落が分かんない方が悪い、という風に考えるってことは美意識の方が上だってことじゃないですか政治よりも。それ重要ですね。文化のほうが上の時代がちゃんとあるってことが江戸時代の尊いところだという。やり方が見事だと言えないじゃないですか?それを言う方が野暮になっちゃうから。なんで雀はだめなんだよ?って言った方がガヤガヤしちゃうもん社会が。ユーモアがきちんとうまいから、こういう風にくぐり抜けられるし、それ自体は国芳は見事なもんですねやっぱり。してやったり、の感じのことばっかりやるから。アイデアマンですよね」

磯田さん「あれね籠の鳥なんだ、と。つまり遊女も雀のような籠の鳥で郭(くるわ)に閉じ込められているけど、それを買いに行く男も武士もいますよね、籠の鳥なんですよね。みんな、規制をかけられているわけですよ。それで一緒に笑っていると言うね。天保の改革の籠の中にみんなで入っているぜ、っていう。それをお互いに認識しあう次元の高い笑いですよね。だからやっぱり洒落なんですよ。感心しますよねぇやっぱり」

鹿島さん「ヨーロッパでもグランヴィルっていう人が動物と人間を合体させてね、僕グランヴィル動物って呼んでるんだけれども、そういうのを作ってね。これとそっくりなことやってるんですよ。風刺ですね、一応建前はクリアしている、禁圧をね。そして風刺画っていうのをのちにジグムント・フロイトさんが後に見て、これは人間の心の構造と同じだっていう風に考えたんですね。人間の欲望ってものが上がってこようとすると、それを人間の意識がこう抑圧する。それをなんとかくぐり抜けようとして生まれたのが実は夢なんだっていうね。フロイトの有名な無意識の構造っていうのは、この風刺画と弾圧とかいくぐろうとする努力という形で同じだっていうんで。だから規制があったから逆にそれをくぐり抜けようとする努力っていうのが楽しかったと思いますよ。やってる人たちは。規制がなくなっちゃったら逆に自由になっちゃうとねぇ、こういう芸術はだんだんなくなっちゃうんですよ。緩やかな専制っていうのが一番文化を育てるっていう」

※ J.J.グランヴィル(1803-1847) フランスの風刺画家。動物や植物を擬人化し体制を批判した。『お天道様の嫌いな人々』という作品では、貴族を光を嫌うコウモリに見立て新しい時代を受け入れない姿を風刺している。

※ ジグムント・フロイト(1856-1939) オーストリア出身の精神分析学の創始者。無意識の概念を発見した。

国芳 まぼろしの浮世絵 隠されたスキャンダル

千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に、発表されなかったと思われる国芳の作品の版木が保管されている。

江戸後期の浮世絵を研究している大久保純一さんは、この版木には珍しい特徴がある、と。

大久保さん「版元の商標のところが”入れ木”っていって修正されているんですね。版元の商標が彫られてるんですけれども、これは彫った後で削って別の板をはめ込んでいますんで、そこんとこが明らかに違いますね」

一体、なぜ出版元が伏せられたのか?

この版木の凸凹を写真からひろって浮世絵を再現させてみると

歌川国芳

中央には巨大な孔雀と少年。その周りを華やかな衣装の女性たちが囲む。

大久保さん「この明らかに武士の子供のような人物を腰元が取り囲んでいますので江戸城とかですねそういったものをイメージするところがあったんじゃないかと思いますねぇ」

磯田さん「あれ一見可愛い絵に見えますけど、まずい絵です。なぜかって言うと、将軍家を実は丸裸にしていて将軍家のヌードよりまずいかもしれない。なぜかと言うと少年の袖を見て欲しいんですけど手を隠してますよね。これ”長袖者(ちょうしゅうもの)”といって長袖で僧侶だとか貴族だとかやるように武芸をしない人を象徴する姿ですよ。徳川家定、当時の若様は体が弱いことは知られていて、幕府の中枢は鳥を飼うような贅沢をしていて統治能力も本当なくて、弱体化していることそのものを切り取ったわけですよ。中枢を。真実を。これはねぇ天才ですよ。このシーンを切り取ろうっていうのは。だから江戸幕府そのものなんですよ、爛熟しきって。だけど、これは見せちゃお終いなんですよ」

浮世絵のタブーに踏み込んだ国芳。この絵は版元が降りたことで出版が叶わなかったと考えられている。だが、国芳はそれで筆を置きはしなかった。

 

時代を越える絵の力

安政6年、横浜が開港すると64歳の国芳は早速その様を描いた。

歌川国芳『横浜本町之図』

『横浜本町之図』

遠近法で描かれた本町の町並み。異国の人々が行き交い、町は活気づく。国芳は最後まで、江戸の人々が見たいと願う絵を描き続けた。

開港を見届けて国芳は文久元年(1861)に65歳で死去。

ボストン美術館学芸員のセーラ・E・トンプソンさんは「国芳はふざけて描いているだけだという人もいます。でも”なぜ自由に描くことが許されないのか”という思いを感じます。法を破らなくてもできることがあると国芳は教えてくれます」

明治に衰退した浮世絵文化

鹿島さん「浮世絵が衰退した最大の理由は人口の減少ね。これは明治に入ると江戸の人口は半分になっちゃうんです。それが回復するのが明治の20年、極端に言うと30年代かな。そこまでずっと人口停滞が続いているから、そうすると人口が減少しちゃうとね文化が滅びちゃうんですよね」

いとうさん「じゃあ、今日本もね」

鹿島さん「かなり危ないでしょう。人口が減少したことで栄えたものってひとつもないですからね」

松島さん「浮世絵が題材としていた江戸の文化そのものが変質しちゃったからだと思うんです。明治の新政府がまず歌舞伎を荒唐無稽なお話なので理路整然と筋の立ったものにしなさい、っていう形で歌舞伎を変えちゃいます。で、遊郭も潰しちゃいます。そこで文明開化が流れ込んできて西洋文明がたくさん入ってくる。そのなかで浮世絵版画というものが、それを支えるメディアではなくなっていったのかなぁと思います」

磯田さん「たぶんねぇ、役立たずっていう風になってくるんだと思うんですよ。本当は豊かな文化なんですけど文明開化になってきたら、いや版画の発行部数はむしろ上がったかもしれないと思います、文明開化の様子、機関車だとかホテルが建ったとか銀行ができたとかいうようなものをどんどん流すようになりますよね。ところが一方では江戸の文化というのは猫の姿を50パターン描いて、ここに美や面白さを見出すわけですよ。あれ役に立つの?って。本当は長い目では役に立つんだけど、そこに人間の役に立つものを見るような心の余裕はしばらくはない」

鹿島さん「明治政府は本当に実学一辺倒ですよ。いろいろ調べてみると文化的なものってものはまったく苦慮してない」

いま歌川国芳から受け取るもの

鹿島さん「僕はやっぱり国芳いてよかったなぁ、と思います。というのは、文化というのは最終的にはマニエリスムがあって登場しないと本当に高度な文化になったって言えないんですよね。だから広重と歌麿だけだと高度な文化と言っていいかという。国芳がなければ仕上げにならないんですよね。だから国芳が来て、江戸の文化がここまで来たっていうね。最終的にマニエリスムは今まで駄目だって言われてきたんだけど僕は完成形態だと思いますね」

※マニエリスム 主に人体を極端に誇張する表現方法。16世紀にヨーロッパで誕生した美術様式。

 

磯田さん「先ほど鹿島先生が完成形ってことをおっしゃられたけど、本当にそうだと思うんですよ。なんで日本人は明治維新をできたんですかね?って、よく外国の人に聞かれるんですけど、それは天保の文化を見てくださいって。どういう風に育って、どういう環境のなかでこの人達が出てくるか。あの気持ちの余裕といい奇蹟のような宝箱ですよね、ある種の。東洋の島にあった。そして、その宝箱が開港っていうので開けた瞬間がちょうど国芳が最後に開港場の様子を、あけぼののような横浜の港を描いて亡くなっていくというのは象徴的だと思いましたね。」

「あともう1つ僕思うのが、アートってのは、しばしばこれから起きることを予見する。あの国芳の見ていると色々予見しているわけですね。明治維新の予見がある。これからは、いくら徳川の朱子学社会が押し付けようが、はねのけようが、やりたいものは、民はやりたいことあるんだ。道徳を超えた民の本能や欲望の是認があるわけですよ、やっぱり。やるなやるな、と権力が抑えても、やっぱりやりたい民はそこにいるっていうのは国芳が体現して見せつけたといってもいいでしょうね。果たして我々はそういう未来を予見するような芸術を、我々も作り出しているかもしれない。作らないといけないとも思います。アートってやっぱり面白いです、そういう点でも」

 

感想のようなもの

江戸時代のことではあるけれど、どこか今の時代にも通じるようなものを感じました。文化を育てる人の存在が必要で、生み出す側を応援することだったり、余裕だったり。

新型コロナウイルス感染防止もあり、次々と展覧会が繰り上げ終了になったり、開幕延期になったり。今まで、美術館や博物館へ行けば当然のように見られていたものが見られない。そうだった、美術も音楽も、いつでもどこでも楽しめる、そのこと自体が平和で豊かなことなんだな、と。今更ながら実感しています。

展覧会の準備をしてきた方々も無念だろうし、見られない私たちも無念。だから、せめて楽しみにしていた展覧会の図録だけは購入して少しだけど応援したいと思う今日このごろです。

 

勝手ながら私のおすすめ国芳本

2017年に府中市美術館で開催された【歌川国芳 21世紀の絵画力】の公式図録。

番組でも紹介されましたが、国芳がいかに西洋画に惹かれていたかを示す資料も載っています。

府中市美術館の学芸員である金子信久さんの本もおすすめです。上記の公式図録の執筆にも携わっていらっしゃいます。