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ルーシー・リー鑑賞会①

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

千葉市美術館で開催中の【没後20年 ルーシーリー展】。

荻窪・6次元さんで、千葉市美術館学芸員の方から直接お話を伺う機会がありました。その時に聞いた話を書き起こしてみました。

読んでわかりやすいように、言葉の順番を少し変えた部分もありますがほぼ、お話の通りに書いております。

聞き間違いなどあるかもしれませんので、ご容赦くださいませ。

なお( )内は私の補足やら独り言です。

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山根学芸員のお話。

ルーシー・リーの器のイメージは、色んなイメージがあると思うんです。

国立新美術館でご覧になった方は「スッとしたシルエットが凄く印象的」という方も多いと思いますし、「首の長い花器が心に残っている」という人もいると思うのですが千葉市美術館で展示をしようというときに、どれが一番ルーシー・リーのイメージかな?ということを考えていって、(チラシに使った写真が)この器になったんです。

実は前回(国立新美術館)の展覧会でも出品されておりまして、大阪の時にこの作品の横一直線の画像でビジュアル使ってらしたんです。

(参考までに、その時のチラシをペタリ)

今回は中が見える感じで作っています。

そもそもこの展覧会は2010~2011年に国立新美術館ほか巡回した展覧会の続編というか、姉妹編という風に位置づけてられています。

今回は、前回担当されていた金子賢治さんが茨城の陶芸美術館へ行かれまして(金子さんは、茨城県陶芸美術の館長さんだそうです)茨城が第一会場となって、この展覧会が国内を巡回しています。

茨城、千葉と来て、あとは姫路、郡山、静岡にまわるわけで(ここにいる皆様には)是非皆様には千葉に来ていただきたい。

ここで主催者の方から「茨城、千葉と言う順番は何故ですか?」という質問が。

準備をされた幹事館(”かんじかん”と仰ってましたのでこの漢字をあててみました)が最初に開催されて、あとは会期の事情もあって、他の展覧会との組み合わせで「うちはいつ」みたいな話をして、この順番になったんです。

実は、私(話されている学芸員の方)は焼き物の専門でも何でもないんです。金子さんは専門家なんですけれど。

もともと○○○○○○○(すみません、聞き取れませんでした)の勉強をしていて、そのご縁でイギリスの展示をいくつか担当させていただいたのですが、焼き物と言うのは初めてで工芸品、デザインという面から親しみはあったので、色々展示にかかわってみて焼き物専門家じゃない目から見て色々気になったこと、気づいたことありますのでお話していきたいと思っています。

このピンクの釉薬。ピンクだけじゃなくて青とか色々ありますけれども、小山さんという陶芸家の方が(リーさんの作品を)再現されていまして、千葉での講演会でも実物のろくろを持ってこられて、3分間クッキングみたいな感じで、「最初こうやります」「乾いたらこうなります」「焼くとこうなります」みたいに見せていただいたんですね。

公式ホームページのニュース欄5/26付に、その様子が紹介されていました。うわぁ、行きたかったなぁ)

実際に見せていただいて凄くそのルーシー・リーの細かい作り方が、よく分かったんです。

(チラシに使われている器の中の)このグリーンのラインと言うのも、小山さん曰く「最初、偶然滲んで出てしまったんだろう。でも、それが綺麗だと思ったからこれは塗っているんでしょうね」という話をされていて、ルーシー・リーは年代を越えて同じような作品を何度も作っているんですけれども、すごく緻密な人のように見えるし(実際)そうなんですけれども、やってみて凄く面白かったということを、その後に作品に取り入れていく人なんだなぁ、と。

~色の出し方について~

ルーシー・リーが使ったのは黄色の六価クロムというものだったそうで、再現の時は緑のクロムを使ったんですが、それが釉薬と錫が反応して色が出るということらしいんです。

ピンクの濃淡と言うのは錫の量で左右されるらしいんだけれども、今ご覧いただいているこのピンクがルーシー・リーが理想としたものに近かったんじゃないか、と私は伺いました。

~ルーシー・リーとは、どんな人物だったのか?~

1902年生まれ、1995年まで非常に長生きをされた方。今回の展覧会は没後20年にあたる。亡くなる5年前に病で倒れるまでは製作活動を続けていた方。

前の展覧会の時にも、(リチャード)アッテンボローさんのインタビュー映像を流していたようなんですけれども、今回もそれをご紹介しています。

それを撮ったのが80歳。80歳とは思えないような、腕とかも凄くしっかりしていて変な感想かもしれないけれど陶芸って体力っていうのを凄い感じた。

1902年ウィーンに生まれ、非常に裕福なユダヤ人の家庭で、お父さんはお医者さん。美術に理解にある家庭といいますか、アーティスティックなものに囲まれた暮らしをしていたと。

家はウィーンの中心部で、診療所であったり自宅のリビングなんかにウィーン工房の作品といったものが恐らく家にあっただろうし、実際に工房も近いので見に行ったのではないか?と。

それだけではなく、おじさんという人がお金持ちで、家が博物館状態だった、と。

古代のものから、色んなところのものを集めていて、そうゆうものを目にする機会があって文化的に豊かな環境で育ったんでしょうね。

その当時、あまり女性が職業を持ってという雰囲気ではなかったんですけれどもお兄さんの勧めもあったらしく工芸美術学校に入った、と。

もとから陶芸家になりたかった訳ではなくて、絵画などアートを学ぼうとして行ったら陶芸科の”ろくろ”に出会ってしまった、というのは皆さんよく知っている話だと思います。

そこから陶芸家としての歩みが始まる訳ですけれども、卒業してから少しずつ活動を始めてそれなりに効果をあげるんですが、第二次大戦でロンドンに渡らざるをえなくなる。

結婚していた夫は実業家としてアメリカへ渡り、ルーシー・リーはロンドンで見つけた工房で陶芸家としての活動を続ける、とゆうことなんです。

ここで主催者の方より質問。

「ハンス・コパーが、旦那さんじゃないか?と思う人が多いと思うんですけど」

(スライドでは、別の写真が紹介されていましたが私がインターネットで探したコパーさんの画像を貼らせていただきます。)

「結婚もしていないし、そもそも、ただのアトリエの共同制作者だった、ということなんでしょうかね?」

その辺は、複雑なんだと思うんですね。ハンス・コパーがアトリエに来たのは1946年と言われているんですけれども。

ルーシー・リーは陶芸家として(イギリスで)活動していこうと思ったんだけれども、それまでのことが活かせないうちに戦争が始まってしまったので、生活のためにボタンを作っていたんですね。

戦後、ボタンを作りながら自分の作品も作って少しずつ出て行ったわけなんですがそのボタンの助手として最初訪ねてきたのがハンス・コパー。

つまりハンス・コパーも国(ドイツ)を追われて、本当は彫刻家になりたかったんですがある日、「仕事があるらしいって聞いたんで」とルーシー・リーの工房を訪ねてきてそこから製作のパートナーとして、表向きはそうゆうことになってますけど・・・

「この(スライドの)写真見ると仲良さそうな」

(深さのある電気窯の淵に腰をあて、窯に頭から突っ込んでいるリーさん。足が宙に浮いているので、その足を持ってあげているコパーさんの写真)

この同じようなカットが、アッテンボローさんとの映像に出てきますけれども(美術館のロビーに、リチャード・アッテンボローさんがリーさんにインタビューする映像が流れておりました。)

電気の窯を使っていて、すごく深いんですって。深くて、たくさん重ねているので焼き上がった時に取るのが大変。

「アッテンボローさんの映像見ましたけれど、台を使えば良さそうなものなのに、わざわざ顔から突っ込んでいくスタイルって、あれ誰もいなかったらどうするんだろう?って」誰もいないときは、重りつけてるって

「本当ですか?!足に?!」

安定を取るために重りをつけたって・・・ただ、別のところで人と話していて思ったんですけど

「足 持ってて下さる?」って言えちゃうの凄いですよね。

しかも、男性ですよ。すごく、そうゆうところがしなやかな人だったのかな、と。

1人で陶芸家として異国でやっていくには、周りにいい意味で助けてもらえる、別に媚びるのでもなく、そうゆう人だったのかなぁ、と。

「ちなみにハンス・コパーとルーシー・リーの年齢差はどれくらい?」

いくつだったかなぁ、20代のコパーに出会ったルーシー・リーが40代なので20は離れてないですね。(あとで調べたところ18歳の年の差だそうで)

最初、ボタンづくりのアシスタントとして来たんだけれどもルーシー・リーが陶芸家としての才能を見て、勉強してらっしゃいといって、すぐに”ろくろ”は使えるようになってボタンだけではなくて、この後テーブルウェアを作っていくんですけれど。

そのテーブルウェア自体も、生活のために「ティーセットをいくつ作ってください」みたいな注文を受けて作りながら、徐々に自分の作品を作っていく準備をしていたんです。

テーブルウェアは共作の物が出ているんですが、それぞれの作品というのは作っていた、と。

ハンス・コパーは、製作上(ルーシー・リーにとって)すごく重要なパートナーだったんです。

ハンスにとっても、そうだったと思うんですけれども、皆さんが気になっているように「恋人同士ですか?」みたいなことを聞いたら「答えたくありません」と言ったそうです。

ルーシー・リー自身は、自分のことはあまり話す人ではなかったようなんです。製作上のことを文章に残すこともなければ、インタビューもあんまり好きじゃない。周りの人が、「こんなこと言ってたよ」という記録が今残っているだけなんです。

「展覧会に行ったら分かると思うんですけれども、リチャード・アッテンボローが取材した貴重なルーシー・リーのドキュメンタリーが流れているんですけれども」

工房でのルーシー・リーの様子で、「これは、どうやって作るんですか?」とか「隠すこともなく、全部こう紹介しているので、逆にその映像を見れば秘密が全部分かるような。20分ぐらいある映像なんですけれども、こうやって作ってたのね!と。

 

話を戻しまして、戦後 工場が再開されてからコパーを含めたアシスタントたちとボタン作りをしながら、製作活動を始めていくわけです。

1948年にイギリス国籍取得し、この頃に より高い温度で焼ける窯を設置していてボタンなどは低い温度で焼いているんですけれども、磁器が焼けるようになって。

1950年代、色々な技法的なこととかを編み出しつつ、皆さんが良く見ているような技法なんかが出てくる時代ですね。1960年代末になると、大きな展覧会が開かれたりして。

どっかで読んだんですけれど「ようやく自分で値段をつけられるようになったわ」みたいなことを言ってたみたいですね。作家として、食べていけるようになった、と。

「気になったのは、当時は比較的、買える値段で売ってた、ということをインタビューの中で言ってたんですけれど、それっていくらぐらいの話だったのかな?と。本当に庶民的なものとして売っていたのか、それこそ数万円ぐらいのものだったのか・・・」

そんなに安い物ではなかったと思います。ただ、今は本当に凄いことになっていますけれども。確かに、その辺のスーパーで売っているようなものではなかったと思います。

「今みたいに、ぐーーーっと評価が上がったというのは」

世界的にどうなのかは分からないけれど、特に日本はここ数年相場が上がっているのではないかと思います。生きている間も、どんどん値段は上がっていって、今まで支えてくれた友達に、買ってもらっていたりしていたのが、買えない値段になってきて申し訳ない、みたいなことは出てましたね。

「ボタン作りをしていた頃は必死に生活しなければいけなかったけれども、途中から結構売れるようになってきたみたいな」

そうでしょうね。展覧会でもロンドンに渡ってから1960年代までを形成期と呼ぶことにして1970年代、1980年代を円熟期という設定をしていますけどねぇ。

「そんなに遅かったんだなぁ、と。1949年にイギリスでの最初の展覧会って」

やはり、戦争が終わったのが1945年。その後に、工房を再開、再開と言いますけれどもそれまでほとんどイギリスでの実績がないままに戦争に入ってしまっている訳ですから

(ルーシー・リーがイギリスへ渡ったのは1938年。翌年に戦争が始まった)

試行錯誤して1950年代にようやくルーシー・リーらしさというのが少しずつ出てくるんだと思います。

長くなりましたので続きはコチラ↓へ

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