私が松島へ行ったのは、12年前の9月。
12年前……
松島観光の船に乗り、五大堂を横目に見つつ、瑞巌寺も気になったのですが
結局入らずじまい。くっ。今の私なら、間違いなく直行するのに。
まだ若かったから(いや、そんなに若くもなかった)。
というわけで
三井記念美術館で開催中の《松島 瑞巌寺と伊達政宗展》へ行って参りました。
大河ドラマでしか知らなかった伊達政宗の直筆や、描いた絵を実際に見られる日がくるとは。
戦国大名たちは、和歌・連歌・茶の湯・香・能・書画などが社交のために必須の教養だったとか。
好きな人、得意な人はいいけれど、苦手な大名もいたんじゃないかしら、と得意の妄想を働かせつつ展示を堪能いたしました。
今回は展示の順番に沿って、気になった展示について書いてみたいと思います。
【展示を見る前に】
まず、展示前室の壁に関係者の方々からのご挨拶が書かれたパネルが。
このパネル、のちのち大事だったと個人的には思っておりまして。
何故かというと、五大明王の簡単な解説が書いてあったからです。実際の五大明王の前には、それぞれの明王様の説明はなかったのでご存知の方は名前を見ただけでピン!とくるのだと思うのですが恥ずかしながら私は自分のメモを読みつつ、あ、この神様が、と照らし合わせつつ拝見。
また、お時間のある方は、美術館入口手前にある映像ギャラリーで流れている映像2本を見てから展示をみてもいいかなぁ、と。
2本併せて20分ぐらいで、確かタイトルは「伊達政宗と瑞巌寺」と「瑞巌寺の美術」だったかと。
私は展示を見終ってから映像を見たのですが、それはそれで復習になり。もし展示前に見ていたら、この屏風はあの辺にあるのだな、とか五大明王の配置などが分かっていいかもしれないな、と。
いずれにしろ、映像は勝手ながらオススメです。
【瑞巌寺と伊達家の伝統】
瑞巌寺は、ずっと瑞巌寺だと思っていた私は最初から目を丸くしまして。
瑞巌寺は伊達政宗が創建したけれども、そもそもは平安時代から続いている寺院である、と。
《天台由緒記》
始まりは慈覚大師円仁という方が開いた天台宗の延福寺で、その盛衰を記したのが《天台由緒記》。
五大堂も延福寺と同じころに創建されたとか。
《水晶五輪仏舎利塔》
時代は進み、鎌倉時代。
源頼朝が亡くなった際、北条雅子が亡夫の浄土を祈念し寺に寄進したのが《水晶五輪仏舎利塔》とのこと。
万物は地・水・火・風・空から成り立つという五大思想によって作られたという仏舎利塔は、すべてが水晶で作られておりました。
下から地輪部、水輪部、火輪部までが水晶の一材で作られており火輪部の頭頂から水輪部にかけて穴をあけ、そこに仏舎利を納入。風輪部と空輪部を差し込み蓋にしている、と。
仏舎利塔の写真は、こちらのページで見られます。
しかも、蓋が開いた状態の!
www.town.miyagi-matsushima.lg.jp
中には頼朝が生前信仰の篤かった仏舎利が2粒入っていたそうですが、1648年(慶安元年)雨乞いの祈祷の際に雲居希膺(うんごきよう)によって海中に投げられたため、現在は一粒だそうです。
貴重な仏舎利を海に投げるほど、その時の雨不足は深刻だったのだろうなぁ、と。
私が見たところ、濃い青と、黒の2粒に見えたのですが勘違いだったようです。完全なる勘違いというか、見間違い。単眼鏡が欲しい。
って、仏舎利!!人生初、仏舎利!!
今まで、仏舎利塔は見たことがあっても仏舎利そのものを見たことはなかったので。ちょっと驚きました。
Wikipediaで仏舎利を調べますと、
仏舎利とは本来、釈迦の遺骨・遺灰・毛髪等であり、このような仏舎利を「真舎利」「真身舎利」という。
しかし真舎利は入手が困難であり、数も限られてくるので、各国で仏舎利の代替品を塔に納めるようになる。
ですよね、いくらなんでも世界各地に行き渡るほどはないですよね。
一つは遺骨によく似た宝石や貴石等を代替品とする例であり、 日本では特に津軽地方の母衣月(ほろづき)の舎利浜(現在の青森県今別町袰月)やその周辺の海岸で採れる翡翠や石英を、仏舎利とみなして古くから珍重した。
今回展示されていた仏舎利が、津軽地方の石なのかどうかは分かりませんがとても綺麗な色の石のように見えました。
《松島山円福禅寺住持次第》
その後、鎌倉幕府5代執権北条時頼が寺名を延福寺から円福寺と改め、臨済宗になった、と。
そうですか、そうですか、宗派が変わることもあるんですね。
円福寺の開山は法身性西(ほっしんしょうさい)で、2世は鎌倉建長寺を開いた蘭渓道隆(大覚禅師)とのこと。
蘭渓道隆。はて、どこかで聞いたことがあるような。
でも思い出せない。
ただ《松島山円福禅寺住持次第》という歴代の僧名および月命日の記録簿には法身性西だけでなく、蘭渓道隆(大覚禅師)も開山と記録されているそうです。
はてさて、どうゆうことなのか。
《火鈴(こうりん)》
《火鈴(こうりん)》という展示品には、興味深い説明が。
円福寺6世の空巌慧は、松島にいながらも法力によって中国にある径山寺(きんざんじ)の火災を透視したというのです。
そして境内の防災石に水をかけて消火を手伝い、その謝礼として贈られたのがこの火鈴とか。
《火鈴》自体は、先ほどご紹介したページにも掲載されておりました。
有形文化財(工芸品) – 宮城県松島町
防火石の写真は、こちらで見られました。
www.town.miyagi-matsushima.lg.jp
なんとも不思議な話であります。
能面
瑞巌寺には能面が34面、狂言面3面が伝わるとか。
前期展示の《能面 釣眼(つりまなこ)》の説明に
面裏の細かく賑やかな鑿目などから作者は大野出目家4代洞白満喬(とうはくみつたか)の可能性が考えられる
恐るべし。鑿目からも作った人が特定できるとは。
金色に塗られ、とても目を惹く能面でした。
龍神や雷神などの神々に用いられる鬼神面(きしんめん)
(釣眼の)名称は大きく特徴的な目に由来するという
心の中を見透かされるような、なんだか落ち着かなくなるような目力を感じました。それは私の普段の行いが……だからかも??
《徒然草 抄》
伊達政宗が徒然草の137段を書写したという《徒然草 抄》。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ、見るものかは」で始まる、この段を書写したことで風雅に対する政宗の美意識がうかがえる、とのこと。
何しろ綺麗な字で見惚れました。説明には、
流麗な筆致が連綿と続き書のうまさが伝わる
なるほど、格調高い説明。私の感想とは大違い。私の語彙が増えますように。
《塵芥集(じんかいしゅう)》
伊達家が領国支配のために伊達家14世・稙宗(たねむね)が制定した《塵芥集(じんかいしゅう)》。
数ある分国法のなかでも条文数が最も多く171箇条あるそうで。
一体、何を定めているのか?と思ったら、神社法・土地法・刑法相続法などなど。
ちなみに伊達家は、藤原魚名(うおな)の後裔とされ、伊達家の始祖は朝宗(ともむね)。
源頼朝の奥州合戦のときに手柄をたて、福島県の伊達郡が与えられてから伊達の姓を名乗ったとのこと。
知らなかった、地名だったとは。ちなみに政宗は17代目。
伊達家には歴代藩主の公式記録が約350年間分残っており、全国的にも極めて稀な例とのこと。
先ほどの《塵芥集》といい、すごく規律正しき家柄という感じが。
《金製ブローチ》
政宗の墓所である瑞鳳殿より発掘された遺愛品の1つ《金製ブローチ》。
金製の小さな円板(10枚ほどあったかしら?)を環状に並べて繋いだものに青銅製の留め金が付いてました。
この金製ブローチは、
>慶長一分金や日時計とともに革袋の中に入っていたと報告されている
Wikipediaより
こちらが慶長一分金とのこと。
そして日時計。日時計???
どうも”懐中日時計”なるものがあったようなので、それなのでしょうか??
と思って、瑞鳳殿公式ホームページを見ていたら、先ほどの金製ブローチの写真が載っていました。
www.zuihoden.com
実際に展示されていたブローチは、この写真よりも綺麗に磨かれておりました。
ただ、日時計らしきものはこのページにはないような。
あと、最後の展示室7に展示されていた《金梨地葵紋桐紋糸巻太刀拵》も
同じく遺愛品の1つで瑞鳳殿より見つかったそうです。
昭和20年に戦災によって瑞鳳殿が焼失。
昭和49年、再建のために墓室の発掘調査が行われた際、政宗の遺骨とともに多くの埋納品が出土したと展示室の説明にありました。
小倉色紙
最後に。
展示室1には三井記念美術館所蔵の展示品が1つ。
それが《小倉色紙「うかりける・・・」》。
小倉百人一首の第74番とのこと。
これは藤原定家74歳の筆だそうで
74歳が書いた74番、と変なところに感心。
>震えのまじった枯れた書風
だそうです。
そうそう、政宗が生きていた当時は、茶室の床にかける茶掛として定家の小倉色紙が珍重されたとか。
それで、なぜこの色紙が三井記念美術館所蔵かというと、そもそもは前田利家から伊達家へ伝わったもので、そこから柳生家、三井家へと伝わった名品だそうです。
伊達政宗は幼少の頃から茶の湯をたしなんでいたとか。
戦いつつ、教養も高めつつ。いやはや、戦国時代を生き抜くには大変そうだなぁなどと思うのでありました。
展示室1だけで長くなりましたので、一旦ここでしめさせていただきます。