展示室1については、こちらに書きましたので今回は展示室2から先を。
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《吉野懐紙 伊達政宗和歌懐紙》
といっても、展示室2の展示は1つ。
前期展示は《吉野懐紙 伊達政宗和歌懐紙》。
文禄3年(1594)2月25日から3月7日まで開かれたという花見。主催者は豊臣秀吉、場所は吉野山。
2月29日に和歌会が開かれ、伊達政宗、徳川家康、前田利家ら20名の公家や武将が参加したそうで。
お題は桜の花に関わるもの5題だったと。
この時、政宗が詠んだ歌が高い評価を得て京都の一流文化人と交流できるきっかけになったとか。
(どんな歌を詠んだのかは説明に書いてあったのですが、残念ながら歌の意味が私には分からず。残念。これじゃ、一流文化人と交流できない、残念。ちなみに展示は最初の2首だったような気がします。)
この時の和歌懐紙を上中下の三巻の巻物にしたらしく、江戸時代に伊達家が京都で巻物を入手し内箱や外箱をあつらえたとか。
展示室3【伊達政宗と茶の湯】
幼少から茶の湯を嗜んでいたという政宗。
天正18年(1590)に小田原の陣に参陣した際、豊臣秀吉に対して千利休に茶を学びたいと言ったとか。
小田原の陣って、あれですよね。有名な。
遅れて参陣したから死を覚悟して、死装束で秀吉に会いに行ったという。懐かしいなぁ、大河ドラマの1シーンが思い出されます。
はて、政宗は千利休からお茶を学べたのかしら??
展示室7では小田原参陣したときの様子を、政宗自身が臣下宛に知らせた書状が展示されていますのでお楽しみに!?
《雲板(うんぱん)》
展示室3で私が一番好きだったのは《雲板(うんぱん)》。
銅で作られたという、大きな大きな、そして厚みもある面白い形をしたもの。一体、何キロあるのかしら??
で、その雲板というのは
禅宗寺院の台所にあたる庫裏に掛けてあり7・5・3という独特のリズムで打ち鳴らし、食事時を大衆に告知する法器。斎板ともいう。
青銅や鉄で鋳造される平板で雲の起こる形を鋳出したことに基づいて雲板と呼ばれる。
雲は雨を含むことから鎮火の意があるとされる。
と説明にありました。
なるほど、なぜ雲なのかと思ったら鎮火の意味があるのですね。
こうゆうことを知ることができると、すごく嬉しくなるのは私だけでありましょうか??
独特のリズムというのも聞いてみたいです。
展示室4【瑞巌寺と秘仏五大明王】
伊達政宗は関ヶ原の戦いで徳川家康の側につき、五大堂に戦勝祈願。
戦勝の御礼として慶長9年(1604)に五大堂を復興したとか。
また、政宗の師である虎哉宗乙(こさいそういつ)のすすめもあり円福寺の復興を決め、慶長14年(1609)に落慶したのが現在の本堂とのこと。その時に寺の名前を瑞巌寺と改めたそうです。
ここからなんですね、瑞巌寺という名前は。
《松島塩竈図屏風(右雙松島図》
前期展示の《松島塩竈図屏風(右雙松島図》。
長谷川等伯晩年の門人・長谷川宗圜が描いたもの。
松島図屏風としては最古級に位置づけられ瑞巌寺の伽藍描写の正確さも指摘されている
とのこと。
小舟に3、4人ずつ乗って松島のアチコチを見ている様子も描かれていました。
金色(ですよね??)もふんだんに使われており、どことなくこの世ではないような風景にも見えました。
伽藍の描写が正確ということは、どこか高台から実際に見て描いたということなのでしょうか。
瑞巌寺本堂について
さて、ここでいきなり瑞巌寺本堂の簡単な、そして寸法アバウトな自作のレイアウト図をば。
本堂【室中 孔雀の間】に飾られていたのが、前期展示の《松孔雀図》6面。
狩野左京という伊達家最初の”お抱え絵師”が描いたものだそうです。
室中 孔雀の間は、奥に続く仏間とともに宗教儀式が営まれる本堂の中心部。
世俗的なものを切り離し、切り離された空間として瑞鳥(ずいちょう)である孔雀を画題とし「山中無暦日」といわれる悟りの場の顕現、すなわち目に見える此の世の浄土を襖絵や欄間の装飾彫刻、虹梁の絵画等で表現する
と説明にありました。
瑞鳥・・・めでたい鳥。鶴・鳳凰など
虹梁・・・主として社寺建築で用いられるやや弓型に反った梁(なるほど!だから虹の文字が入ってるんですね!!なんて素敵な名前)
現在の瑞巌寺本堂には、復元された襖絵が入っているそうなのですがその煌びやかな色合い!
展示されていた作品が、昔はそんなにも鮮やかだったのかと思うと少し意外な気も。まぁ、意外というのも変な話ですが。
《松孔雀図》と同じく10/10まで展示の《羅漢図》4面は【羅漢の間】に、
これまた同じく10/10まで展示の《寒山拾得図》4面は【墨絵の間】にあるようで。
10/12からは《松孔雀図》《羅漢図》《寒山拾得図》に代わりまして
《文王呂図》6面と4面、《竹に鶴図》1面、《虎図》1面が展示されるとか。
それも見てみたいなぁ。
ちなみに瑞巌寺本堂は慶長14年(1609)に完成したものの、墨絵の間以外の襖絵は元和8年(1622)に完成したそうです。
かなり時間をかけて、じっくり制作されたのですね。
話は戻りますが《羅漢図》の表面は《松に唐獅子図》と説明にありました。
《羅漢図》が羅漢の間のどの位置にあるのかが私には分かっておらず、表面というのが、ちょっと分からなくて。
仏間側ということなのかな?とか勝手に推測。
どこか説明に、どの部分の襖絵なのか書いてあったような気もするのですがメモし忘れてしまって。
《羅漢図》は上段の間、上々段の間、文王の間と同じく長谷川等胤によるもの。
中央には仏法の守護神・韋駄天がいて、雲の上から15人の羅漢を見守るという構図でした。
中国・日本では仏法を護持することを誓った16人の弟子を十六羅漢と称し尊崇することが盛んとなった。
長谷川等伯の描いた《十六羅漢図》(京都 智積院蔵)をもとに屏風よりも面積が狭いため人物を再配置したり省略して描いているが、
描かれた人物も15人と1名足りず等胤独自の作画が見られる。
!!スペースの関係もあったとはいえ、15人にするというのも大胆ですね。
長谷川等伯の屏風図も見てみたいとインターネットで検索をしたのですが残念ながら見つかりませんでした。
またまた長くなりましたので、最後に1つだけ。
《寒山拾得図》があるのは【墨絵の間】だそうです。
本堂内で唯一の水墨画で構成される墨絵の間は本堂の裏手北隅に位置し山僧の控室または住職の応接室に用いられたと伝える。
と説明にありました。
絵の中で拾得は墨を擦っておりました。
放浪詩人である寒山から字を習い、そのお礼に残飯をあげた、と。この二人、そうゆう関係性だったのですね。絵としてはよく見るものの、あまり話をよく知らないという。
もう少し勉強してから見に行ったら、より面白いんだろうなぁと思う今日この頃です。
《松島 瑞巌寺と伊達政宗展》 展示室4の五大明王像と不動明王三尊像