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『偉人たちの健康診断』伊能忠敬

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

正確な日本地図を作るため全国津々浦々を歩き回った伊能忠敬。

55歳から歩き始めた彼が歩いた距離は4万キロ、およそ地球1周分とも言われているそうで。

その彼の健康の秘訣を探る番組をやっていたので、まとめてみました。

なお、放送された当時の内容をまとめたものであり、そのなかには諸説あることも含まれるかもしれません。悪しからず。

 

伊能忠敬が作成した地図

伊能忠敬が作った地図の中で最も大きい「大日本沿海輿地全図」を広げると、畳およそ1500畳の大きさ。

村や町の名前がびっしりと書き込まれ、城や神社など町のシンボルは絵で表現されている。

それまでも地図は存在していたが、実際に全国を測量して作った地図はこの地図が初めて。

完成まで22年かかった。

 

伊能忠敬の人生

千葉・佐原にある酒などを扱う商家の主(あるじ)として人生の大半を仕事にささげる。

50歳で息子に仕事を譲り、江戸に出て隠居生活開始。

隠居して知りたくなったこと

彼は地球の大きさが知りたくなったんだとか。

① 2か所で星の見える角度を測る。

② 同じ星でも見る場所が違えば角度が違ってくる。この角度の差は、地球の中心と2つの場所を結ぶ角度と一緒になる。

③ なので2か所の距離を測って360度に当てはめれば地球の大きさが分かる、らしいです。

こちらに太陽を使った地球の大きさの求め方がでていました。

 

まずは自宅のある深川の黒江町(くろえちょう)から浅草までの距離を歩いて測ってみようとした伊能忠敬。

実際に黒江町・浅草測量図というものを作成。

自宅から浅草までは直線ではないので、地図を作ってから直線距離を求めた伊能忠敬。

その導き出した値を持って幕府天文方・高橋至時(よしとき)を訪ねる。

しかし地球の大きさを測るには、深川と浅草では距離が近すぎて誤差が大きくなってしまうと指摘される。

せめて江戸と蝦夷地(今の北海道)との距離を測れれば、と言われるも当時は幕府から特別に許可をもらわないと行くことができない場所だった。

そこで天文学者の仲介により、蝦夷地の詳細な地図を作ると言う名目で蝦夷地へ行く許可を取り付ける。

いよいよ地図作りスタート

寛政12年(1800)閏(うるう)4月19日

蝦夷地へ向けて出発した伊能忠敬、当時55歳。

測量日記に旅の行程や宿泊地、隊員の健康状態まで旅の様子を残している。

日記には毎日朝6時ごろには宿をたち、夕方4時ごろまで測量を続けながら移動。宿では毎晩のように星を観測。作業は時に夜中まで続いた。

江戸から蝦夷地までは、およそ840kmの道のり。測量を行いながら、奥州(おうしゅう)街道を北上。

5日目には早くも白川の関を越え東北地方へ。9日目には仙台、14日目には盛岡、21日目には津軽半島の先端・三厩(みんまや)。

1日平均40kmの距離を歩くハイペース。

これだけハイペースに歩ける秘密とは?

 

蝦夷地へ

出発から30日目の寛政12(1800)5月19日、海を渡りついに蝦夷地に上陸。

海岸線に沿って東へ。しかし本州とは違い道が険しく、宿泊地もままならない測量は困難を極める。

蝦夷地に渡って43日目の寛政12(1800)7月2日。
最大の難所である襟裳岬に到着。

高さ60mにも及ぶ断崖がそびえ立ち、波の合間を縫って前へ進むことに。

「終日難所を歩き、わらじを代えの分まで履きつぶし最後には素足で歩いた。日も暮れてきて迎えの提灯を見た時は地獄に仏の気分だった」と測量日記には記されている。

襟裳岬の難所をぬけると、次は湿原へ。ぬかるんだ湿地に足をとられ測量もままならず、測量は断念。

船でオホーツク沿岸の西別(にしべつ)へ移動。ここが蝦夷地測量の最終地点となる。厳しい蝦夷地の冬が、そこまで迫っていたからだった。

寛政12(1800)10月21日、江戸へ帰ってきた。

測量日数180日、歩いた距離は3225km。

さっそく蝦夷地で得られた観測データをもとに、地球の大きさを計算し始める伊能忠敬。

その結果、地球の経度1度は27里。

27里=106.03km

これを360度に当てはめると、地球の大きさは3万8173.06km。

実際の地球の大きさ4万0007.86kmと比べると差はあるものの、当時の技術からすると驚異的な正確さ。

地図が思わぬ事態を

伊能忠敬が作った蝦夷地の地図が江戸城で思わぬ事態を引き起こしていた。

生真面目な伊能忠敬は、悪路により船での移動となった部分に”不測量”と記入している。

その緻密な仕事ぶりを高く評価した幕府は、他の地域の地図も作るよう伊能忠敬に命じる。

こうして56歳にして日本全土を巡る地図づくりの旅が始まる。

日本全図作成へ

蝦夷地から帰った翌年の享和元年(1801)、東日本の測量を開始。

延べ7000kmに及ぶ旅の始まり。

正確な地図を作るためには人が通ることのない断崖でも岩を伝い歩いて測量し正確な海岸線を出した。

途中、鎌倉では鶴岡八幡宮へ参拝。大仏も拝んだことが日記に書かれている。

持病を抱えながらも3年の間に関東、東北、東海、北陸の測量を行った。

しかし幕府の許可を得ているとはいえ、各藩の領内を測量して回ることを快く思わない者も多かったようで地元の協力を得られないことも度々あった。

なぜ正確な日本地図を作る必要があるのかという必要性が、当時なかなか理解されなかった。

東日本測量の旅は延べ581日、7000kmに上った。その測量結果をもとに作られたのが東日本沿海地図。

東日本の測量から戻って1年足らず1804年に完成した。その時、伊能忠敬は59歳。

赤い線は、すべて伊能忠敬たちが歩いた道筋。赤い星のマークは天体観測をやった場所。

今まで誰も見たことのなかったリアルな東日本の姿が浮かび上がった。この地図は時の将軍・家斉も見て、伊能忠敬は幕臣に取り立てられる。

西日本へ

折衝が多くなり籠に乗ることが増えた伊能忠敬。自分の足で歩くことが減り、再び持病が再発。

西日本全域の測量を終え江戸に帰り着いた伊能忠敬は心底疲れはて、翌年の伊豆七島の測量は弟子たちに全てを託す。

測量完了し地図作り

各地の測量を終えた時伊能忠敬は71歳。
測量結果をもとに地図の取りまとめにかかる。

① 下図の作成
観測ポイントごとに一点一点針で穴を開け、これを線で結び測線を出す。この段階で誤差の補正も行う。

② 下図に和紙を重ねて写し取る

③ 村や町などの地名を書き足す

⓸ 現場で描いたスケッチをもとに風景も描き加える

一枚仕上げるだけでも莫大な時間がかかる繊細な作業。弟子たちと来る日も来る日も作業に没頭。

一日の大半を正座で過ごす日々、これが伊能忠敬のもうひとつの持病を悪化させることになる。

持病の他にも体調の悪化を抱えつつ、測量で訪れた地一つ一つを地図に落とし込んでゆく伊能忠敬。

しかし文化15(1818)4月13日、逝去。享年74歳。

残された弟子たちが地図を完成させ、幕府に献上したのは伊能忠敬の3年後のことだった。

もう1度、地球の大きさを

蝦夷地での観測のあとも、各地で天体観測を続けた伊能忠敬。

もう一度、地球の大きさを計算しなおす。

地球の緯度1度の距離=28里2分。

伊能忠敬の測定値によれば、39869.645km。

現代の測定値は40007.863km。

その値は地球規模の観測網を駆使して割り出した現代の測定結果と比べても、誤差0.345%しかない正確なもの。

伊能忠敬が残した言葉

鳥取市青谷に、5代前の先祖が伊能忠敬(当時69歳)を自宅に宿泊させた子孫が存在している。

「士官致候より浪士にて天文測量などの径行(けいこう)気ままに致したく心から願う」

地図作りの功績を認められて幕府の役人として出世するよりも、自由な身分で気ままに天文測量をしていたい。

健脚の秘密

55歳から歩き始めた伊能忠敬。

彼の驚異的な健脚の秘密は”歩き方”。

ひざや腰に負担がかからない、体にやさしい歩き方をしていた。

それはナンバ歩きと呼ばれるもので、同じ側の肩と足を連動させて歩くこと。右足が前なら右肩も前、左足が前なら左肩も前になる。

女性や子供も当時は40kmぐらい歩いていたというのは、この歩き方をしていたからだと思われる。

ナンバ歩きの秘密その1:上半身と下半身のひねり

現代の歩き方 上半身と下半身が交互に前に出るため、常に体をひねっている状態になる。これだと腰椎に負担をかけ腰痛を引き起こす原因となることがある。
ナンバ歩き 上半身と下半身が同じ方向を向いて動くと、ひねりは生じず体への負担も少なくなる。

 

ナンバ歩きの秘密その2:足の運び方

現代の歩き方 かかとから地面に着地する。衝撃がかかとにかかるため、かかとを痛めやすい。膝をも痛める場合もある。
ナンバ歩き 後ろの足を持ち上げ、そっと前に置くように歩く。足の裏全体で着地するため衝撃が分散され、足を痛めにくい。

 

では、なぜナンバ歩きは消えてしまったのか?

着物で現代の歩き方をするとはだけてきてしまうが、ナンバ歩きなら着崩れることはない。

しかし洋服を着ることが増え、ナンバ歩きは自然に姿を消していった。

ナンバ歩きの方法

右足を上げる時に右肩を軽く上げて同時に下す。左も同じようにし、どちらの時も体を左右に揺らさないように注意する。

体をひねらないように意識する。

体をひねらないよう意識するだけでも、腰への負担は軽くなる。

 

伊能忠敬が悩まされていた病

ちょっとビックリするような治療法も含まれています。

あまり詳しく知りたくない、という方はこの先は読まない方がいいかもしれません。

持病①

東日本の測量に出かけて4週間後の熱海。持病の痰を発して逗留。

現代の病気で考えられるのは気管支拡張症という病気。冬場に悪くなる、痰が増えるというものが考えられる。

しかし測量日記によれば発病したのは4月28日。現代の暦でいえば6月で梅雨時。

前日の夜は星の観測をしており、夜中から朝にかけて急に発病したことから、気管支喘息が最も考えやすい。

喘息とは、慢性的な炎症が気管支などの気道に起こる病気。気道の粘膜が過剰に反応して発作が起こると、空気の通り道が狭くなって息が苦しくなる。

発作が起きていない時でも、常に機動の粘膜が炎症を起こしている状態が続いているためちょっとした刺激でも発作の引き金になってしまう。

現代では日頃から薬を服用し気道の炎症を抑える治療が行われている。

その治療法がなかった江戸時代では、発作を繰り返していると気道の炎症がどんどん悪化してしまい、最悪の場合は命を落とすこともあった。

4月、9月と何度か発作を起こしている伊能忠敬。とはいえ、幕府の命令で地図をつくっているため途中で投げ出すわけにはいかず旅を続ける。

爆弾を抱えたままの地図づくり、と思われたがむしろそれが良かったのではないかと考える専門医も。

一般的に運動することは心肺機能を高め、手足にしっかり筋力がつく。

運動をしたからといって喘息が治るわけではないが、心肺機能が高まり吸える空気の量が増えれば発作が起きてもその苦しさが以前より軽く感じることがある。

もし、しんどいからと伊能忠敬が歩くのを諦めていたら、もっとしんどい思いをしていたのかもしれない。

しかしその後は折衝に追われ、籠に乗る機会が増えた伊能忠敬。自分の足で歩くことが少なくなってしまった。

63歳の時に「持病の痰にて引きこもる」と日記に書かれており、喘息が再び発症してしまう。

測量を続けるための体力が奪われていき、弟子たちが伊能忠敬の健康を気遣い自分たちで作業をする。さらに伊能忠敬の健康が損なわれる、という悪循環に。

持病②

家族への手紙には「24〜25年悩まされてきた痔が再発し一両日中は困り申し候」との記載がある。

ここ10年以上は鳴りを潜めていた持病の痔が再発。

現代と同様、江戸時代でも6割近くの人が痔に苦しんでいたと言われている(そんなに!!)

痔にお灸を据えて治療している”痔に灸活をする図(”七湯の枝折”)が紹介されていてびっくりしました。え、直接?!?!?

伊能忠敬も痔の治療を受けたことが記録に残っている。なんとヒルを使った治療法を試み、かなり良くなった、と。

ヒルは血を吸うので内痔核と言われる種類の痔に効果があるとか。

痔には3つのタイプがあり

① 切れ痔(裂肛)
② あな痔(痔ろう)
③ いぼ痔(痔核)

伊能忠敬が患ったと思われる痔核は、いぼ痔の一種。

肛門の中に いぼ状の腫れ物ができ、それが肛門の外にまで飛び出す。いぼ痔はいわば血管の塊。

肛門から飛び出したいぼが下着とこすれると、まるで傷口を直接なすりつけたような激しい痛みに襲われる。

それをヒルが血を吸い出すことでいぼが小さくなり楽になる。また、ヒルの唾液や細胞がいぼ痔に入り炎症を引き起こす。

この結果、いぼ痔に流れ込む血流が低下。血管の塊であるいぼ痔は潰れ、かたく小さくなっていく。

現在ではヒルを使った痔の治療法はなくなったが、現在でもヒルが活躍している医療現場がある。

細菌感染を避けるため無菌培養された医療用ヒルは、指の切断後の手術(再接着)後に指がうっ血を起こした場合に使われたりする。

ヒルの唾液には”ヒルジン”という血液が固まるのを妨げる成分が含まれている。この効果によりヒルが血を吸い終わった後も、およそ24時間にわたって血が染み出し続けうっ血は徐々に減っていく。

ただし、この治療法は専門病院でなければなかなか体験できない。

ちなみに(?)松尾芭蕉や加藤清正も痔だったとか。

その他の不調

家族への手紙には12〜13日下痢が続いていて困っていることや、咳が止まらず卵湯を飲んでいるが全快には手間取るだろうといった不調が書かれている。