安田靫彦 PR

『安田靫彦』展で見た紹介ビデオ

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

東京国立近代美術館で開催中の安田靫彦展。

会場に流れていた安田靫彦氏の紹介ビデオをメモってきたので書き起こしてみました。

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平家を迎え撃つ頼朝のもとに馳せ参じた義経。

運命の再会を果たした瞬間を張りつめた緊迫感の中で劇的に描き切った画家・安田靫彦。

歴史画の頂点とされる傑作です。

「いい時代を描きたくなる」

歴史上の人物や伝説の場面を描いた安田靫彦の芸術には高貴な香りと深い精神性が秘められています。

安田靫彦は日本画に何を求めたのでしょうか?

明治17年。

日本橋に生まれた新三郎、のちの安田靫彦は病弱で休みがちだった小学校を高等科三年で退学。絵を描くことが何より好きだったことから、画家になる決意をします。

歴史画家・小堀鞆音に入門。

画号”靫彦”を授かって画家へのスタートを切ったのは14歳の時でした。

入門後二年後の作品『遣唐使』。

前途多難な旅立ちを前に、家族との別れの情感を歴史画には珍しく名もなき遣唐使を主題に描いています。

16歳、若き安田靫彦から湧き出る新しい試みが感じられます。

院展に出品し、褒状二等となりました。

(最初、褒状が分からず探していたところ東京文化財研究所のホームページで安田靫彦について書かれているページを発見。ページはこちらです

院展の指導者 岡倉天心は安田靫彦の才能を認め、奈良へ留学させます。

世界に通用する新しい日本画を目指していた岡倉天心は、古典を見直し独自の構想で描くことが大切だと考えていたのです。

日本美術の原点、法隆寺金堂壁画。しなやかな線描、荘厳な構図。安田靫彦は壁画と向き合い古典が秘めたエッセンスを探ります。

しかし奈良留学は病のため、やむなく途中で帰京することになってしまいます。

伊豆・修善寺の新井旅館。結核が判明し、安田靫彦が療養した場所です。

今村紫紅や前田清邨、小林古径らと新しい日本画を目指して結成していた紅児会。

仲間が意欲的な作品を発表するのを横目に安田靫彦だけが本格的な製作に取り掛かれません。

ジレンマが続く四年の養生生活の中で、法隆寺で得た構想を練り続けていました。

体調が回復すると同時に取り掛かった作品『夢殿』。

法華経の解釈に悩む聖徳太子が夢殿で瞑想に入ると金色(こんじき)に輝く僧が現れて教えを授けた、という場面です。

幻想的な場面にふさわしい透明な色調と簡略化された描写が気品に満ちた調和を生み出しています。

写実を基本にしながら、写実にすぎることなく表現する。その後の画風を決定づける作品となりました。

この頃、安田靫彦の絵に大きな影響を与える人物と出会います。

木立に包まれて ひっそりと佇む小さな庵。

良寛が住んでいた国上寺(こくじょうじ)の五合庵です。

体調を気遣う安田靫彦には珍しく新妻を連れて旅行をしたところです。旅行の後に描いた『五合庵の春』。

純真な子供と遊ぶことを晩年のよすがとした良寛。良寛を訪ねる村の子供二人。のどかな風景が浄土のように輝いています。

不安な日々に出会い、終生、床の間に飾って手本とした良寛の書。集めた書は100を超えていました。

(良寛の書を、まずいからいいって思ってる人がいるけれど、本当はそうじゃない、といったことを仰ってる安田靫彦氏。ちょっと書ききれませんでした)

人格を表す書の線。

良寛に魅せられて書を始めた安田靫彦に奥深い魅力が加わります。

(ニュース映像が流れてきまして)

昭和15年11月10日。

国をあげて待望の紀元二千六百年式典の佳き日に・・・

太平洋戦争の前年、挙国一致の体制化で紀元二千六百年を祝う奉祝展覧会が開かれました。

その委員をつとめていた安田靫彦は時局を考え団結をテーマとした歴史上の物語を描きます。

『黄瀬川陣』

頼朝のもとに駆け付けた義経。

吾妻鏡の物語を独自の構想に練り直し、人物を兄弟2人に絞った最小限の構成。迷いのない美しい線。透明にして印象的な色彩。武具や衣装などの徹底した時代考証。緊張感漲る、兄弟の心理描写。

安田靫彦は積み上げてきた技術を全てつぎ込み兄弟に待ち受ける対照的な運命を表現したのです。

この作品は、近代日本画史上最高傑作と評価され歴史画家として不動の地位を得ました。

終戦を迎えて時代の重圧から解放された安田靫彦は、現実にはない理想の世界を歴史画で描こうとしていきます。

『飛鳥の春の額田王』です。

19歳の時の訪れ、大切に心にしまってきた飛鳥。

大和三山を背景に、本薬師寺などを配置し情熱的な歌人・額田王と万葉の理想郷を描きました。

 

自宅(大磯)の庭に植えて愛でた梅。その数は40本を超えたと言います。梅は安田靫彦にとって重要な絵画のモチーフでした。

複雑な梅の木肌を、あえて平面的に描き、金地を背景に紅梅を一層際立たせています。写実を超えた表現で、見る者に梅の香りまでを感じさせる晩年の傑作です。

絵を描くこと一筋に歩んできた安田靫彦。

その徹底ぶりを、いと夫人はこう語っています。

「私が、お父さんの一番大切なものはなんですか?と聞いたら『まず命。次に絵。そのほかには何もない』って言うんです。それじゃ家の者が可哀そうじゃありませんか、と言いますと『それはしょうがない』と、はっきり言いました。本気でそう思っていたらしいです」

美しい線、澄んだ色彩、無駄のない構図。

日本美術院の理想を背負って、日本画にゆるぎない形を与えた安田靫彦。

その芸術には私たち日本人を揺り動かす”美の心”が宿っています。

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