《松島 瑞巌寺と伊達政宗展》に関する記事が続いております。
《瑞巌寺本堂直国欄間》
《瑞巌寺本堂直国欄間》は、やはり見事でした。
何度見ても(といっても2度めだけど)美しいなぁ。
ちょっとしゃがんで、下から見上げてみましたら。
鳥のおなかの部分とかに色が残っているのが見えたり、羽や尻尾の表現が、それぞれに違っていて見ごたえありました。
欄間だから、通常はこんなに間近で見られないのに。
なのに、ここまで丁寧に作り上げられているなんて、と。
展示室6は、前回あまり触れてなかったので
usakameartsandcinemas.hatenablog.com
ちょっと長めに追記を。
1992~1993年に行われた瑞巌寺の宝物館建設。
それに伴い発掘調査が行われ、瑞巌寺の前身である臨済宗・円福寺の遺構と建物が発見されたそうです。
展示室1に展示されていた《天台由緒記》に書かれている通り13世紀中頃に創建されたことが考古学的に証明されたとか。また、火災によって焼け落ちたということも新たに分かったそうです。
何百年も前のことが分かってしまうんですねぇ。
池跡からは大量に”笹塔婆”なるものが出土したとのことですが、本来は臨済宗寺院では使用しないものであり、当時は新参者であった臨済宗が在来の天台宗の教義を取り入れて活動していたのではないか、と。
面白いなぁ、色々と工夫して活動していたんですねぇ。
瑞巌寺本堂直下からも円福寺にかかわる遺構が多数見つかり、中でも”四半敷”という切石を45度に傾けてつめた特殊な舗装は東北初の発見!と。
はて。”四半敷”とは??
おお!見たことあります、あります。
そうゆう名前だったのですね!!勉強になるなぁ。
《黒羅紗地裾緋羅紗山形文様陣羽織》
くろらしゃじすそひらしゃやまがたもんようじんばおり、と読むそうで。
写真は、仙台市博物館のホームページで見られます。
>黒と金と赤のシンプルかつ大胆なデザインの陣羽織で南蛮屏風などに
>描かれる服装デザインに通じ自ら南蛮(ヨーロッパ)へ使節を送って
>交易を求めた政宗らしいデザイン
>黒の羅紗地に金銀糸のモールで縦縞に飾り、裾は赤い緋羅紗で
>山形の文様をあらわす。
>襟にはフリル襞飾りのあとが残っている。
と説明にありました。
一生懸命にフリルあとを探したのですが、うむ、残念ながら私には分からず。
《小紋染胴服》
この写真も、先ほど紹介した仙台市博物館のホームページで見られます。
胴服というのは衣服や甲冑などの上にはおって着る腰までの短い上着だそうで室町末から江戸初期に上層武士が着ていたものとか。
伊達家家臣の片倉小十郎重綱(のちに重長に改名)が伏見滞在中に秀吉より羽織を拝領したとのが、この胴服なのではないか、と。
ほほー、政宗だけでなく家臣にまでプレゼント(?!)してくれるとは。すごく暖かそうな半纏のように見えました。
仙台市博物館のホームページの説明によると絹らしいので、軽くて暖かいのかもなぁ、と勝手に想像。
《徳川家康領地覚書(百万石のお墨付き)》
百万ドルの夜景は見たことありますが、百万石のお墨付きは初めて見ました。
またまた仙台市博物館のホームページで見られます。
慶長3年(1598)8月に秀吉が亡くなると政宗は家康の六男・忠輝と自分の娘(五郎八姫)との縁組を決めるなどして家康に急接近!
この覚書は慶長5年9月の関ヶ原の戦いの前の月に家康が書いたもので戦勝後の恩賞について政宗が要求したとか。
宛名が「大崎少将」となっているけれど、それが政宗のことらしいです。
内容は秀吉に没収された苅田、伊達、信夫、二本松、塩松、田村、長井の10領7か所(全部で49万5千石あまり)をくれるというものらしく。
政宗が持っている所領と合わせると100万石越えるので”百万石のお墨付き”と呼ばれているそうなのですが。
実際には約束は果たされず、苅田群のみがもらえた、と。
くううぅ。覚書すら反故する権力者めぇええ。
《鳳凰図屏風》(旧仙台城本丸大広間障壁画)
こちらで見られます。
屏風の画面からはみ出すほどの大きな鳳凰が描かれた屏風。
もとは仙台城本丸大広間のうち藩主が家臣との謁見に使う中枢の部屋の上段の間を飾っていたものと伝えられているそうで。
もっと大きな構図の絵の一部を屏風に仕立てたのではないかと。よく障壁画が残っていたなぁ。
と、後期展示の追記は以上となります。
いよいよ、いよいよ、次回こそ最終回!
ミュージアムショップで購入したグッズについて書こうと思います。
松島 瑞巌寺と伊達政宗展 後期展示の追記①《 》松島 瑞巌寺と伊達政宗展のグッズについて