もともとは興福寺にあった2つの像。
この2つの像が今月末まで根津美術館で再会しているということで、
お邪魔してきました。
112年ぶりの再会。
きっと積もる話も沢山あるだろうと勝手に思いつつ、いや、神様たちにとっては
112年といっても、そんなに長い時間ではないんだろうか、などと
ぼんやり妄想しつつ。
当館の名前は、コレクションの基礎を築いた実業家 初代・根津嘉一郎にちなみます。蒐集品を私邸で広く内外に披露して「美術外交」に努めた初代と、帝釈天像との一枚をご覧ください。3/4-31までの特別展示「再会―興福寺の梵天と帝釈天」(展示室3 )どうぞお見逃しなく。#根津美術館 pic.twitter.com/DZjU9Hp0TB
「帝釈天さんうれしそうに見えました。お経聞いたの100年ぶりぐらいだからかな」という興福寺の方のお言葉に、グッときました。法要無事終了です。「再会」展示は3/31まで。途中、2/20-3/3までは展示替えのため全館休館しますのでお気を付け下さい。#根津美術館 pic.twitter.com/xJRwuynuXb
— 根津美術館 (@nezumuseum) 2017年1月12日
根津美術館さんのツイートを読んだ時に、少々複雑な気持ちに。
美術品として見られる帝釈天の人生(いや、人ではないけれど)、
信仰の対象として毎日お経をあげてもらう梵天の人生(以下、同文)。
どちらが良いとか、悪いとか、誰が悪いとかいう訳ではなくて。
信仰心のない自分が、こんなにも簡単に仏像をみていいんだろうか、という
想いが常々ありまして。
数十年に1回、その場へ行かないと拝めない秘仏などを立て続けに展覧会で
見られたりしたときに。
ふと、そんなことを考えたのであります。
不思議なことに。
それが、曼荼羅とか法具とかですと、そこまで考えないのですが。
(おそらく知識が追い付いてないからだと思われます)
どういう訳か、というか、やはり立体だと、知識うんぬんを越えて
ダイレクトに”何か”を感じてしまうからなんでしょうか。
”何か”といっても、怒ってるなぁ、とか、穏やかなお顔立ちだなぁ
ということでして。
なるほど、立体曼荼羅という考え方もあるのですね。
見えない世界、想像の及ばない世界を、分かりやすい形にしてみせる。
なるほど、なるほど、すごい工夫だなぁ、と。
根津美術館の展示室に、興福寺の管主である多川俊映氏のことばが。
ペアの像は二つで一つ。一具であってこそ、意味がある。
たとえば、きびしい議論を繰り広げて仏教の奥義を明らかにした
維摩居士と文殊菩薩の対像は、どちらか一方が欠けたら、それこそ
話にならない。
阿形と吽形の金剛力士のペアもそうだし、かつて興福寺の西金堂に
所在したユーモラスな天燈鬼と龍燈鬼の対像も、どちらかが欠けても
具合がわるい。どこまでも二つで一つなのだ。
興福寺のホームページで天燈鬼と龍燈鬼の写真が見られます。
少し、間を省略させていただきまして続きを
私は予ねてより、この別れ別れになったペア像の並立展観を
夢みていたが、このほど根津美術館のご協力で念願がかない
心が浮き立つほどうれしく思っている。
これを読んで涙ぐむという。
ようやく会えたんですね。
そうか、でもまた離れ離れに。
でも、だからこそ人の心に残る二つの像。
静かに、それぞれの路を歩まれている梵天と帝釈天のたたずまいに
色々と考え、想いを馳せたひと時でした。