「何百年も前に江戸の絵師が描いた絵。私にはとても斬新でアバンギャルドに見える」と語る映画監督のリンダ・ホーグランドさん。
なぜ日本の美術がアメリカ人の心を捉えたのか。それを探るホーグランド監督の旅。
日本美術コレクター6人が取り上げられていました。
Contents
アメリカにある日本美術の数々
ニューヨークにあるメトロポリタン美術館をはじめ、アメリカ各地にある日本美術は10万点とも言われている。
誰が、どんな思いで集めたのか?
山下氏「そのまま日本にあったら国宝じゃないかっていわれるレベルのものが相当出ていますよね」
美に魅入られたアメリカ人コレクターたち。
シアトル美術館
西海岸シアトルにあるシアトル美術館。
『烏図』作者不明
監督「金と黒だけで構成され空も地面も背景は何も描かれていない。私を魅了した最初の絵だ」
キュレーターのシャオジン・ウー氏いわく「とても珍しい作品で烏だけを90羽以上も描写している。圧倒的なパワーを感じる作品です。17世紀に描かれたと考えていますが作者はわかっていません。”カラスの動きをこれだけ細かく記憶できたこの日本の絵師は天才だ”とフラー氏は言っていた」
コレクター1 リチャード・フラー
カラスの動きに心を奪われ『烏図』を手に入れたのがリチャード・フラー。彼が愛したのは日本人が描く自然。
1933年、フラーはシアトル美術館を設立。
その14年前に日本を訪れコレクションが始まる。
地質学者であったフラーは彼が学んだ自然とは異なる光景を屏風に見ることになる。
『竹に芥子図』狩野重信
監督「宙に浮くように描かれた芥子や竹。実際にはありえない景色だが不思議と調和している」
この監督の言葉に、びっくりしました。屏風に描かれる自然は、こういうものだとどこか当たり前のように見ていたといいますか。だから、そうか本当は”ありえない景色”ということに驚くべき(べきではないか?)なのかな、と。私はありのまま、すっと受け取っていました。まぁ、昔から疑問を持てない子供だったので……しょぼん。
ナレーション「地面がないという不思議。草花は極めてリアルなのに地面がない」
『山水図』尾形光琳
キュレーター「これは尾形光琳の署名入りの二曲一隻の屏風です。まるで近代の抽象画のように金箔と墨で風景を描いています。ここには橋を渡る小さな旅人がいますね」
「フラーは1934年以来、50年代、60年代に度々日本を訪ね当時トップの美術商だった山中と交流を持った」
フラーのコレクションを支えたのは美術商の山中定次郎氏。
1894年(明治27年)ニューヨークに進出。山中商会はフラーのようなアメリカ人コレクターを増やし、ほかの美術商も次々に登場。
仏像から浮世絵まであらゆる日本の美術品を扱い、オリエンタルブームを背景に会社は急成長。日本美術は海を渡ってアメリカ各地のコレクターや美術館に収められていく。
コレクター2 チャールズ・フリーア
日本美術を膨大に買い集めワシントンにあるフリーア美術館の礎を築く。
日本を最初に訪れたのは明治時代。フリーアも山中氏の顧客の1人だった。雪村(せっそん)の屏風の領収書に600ドル。ほぼ当時のアメリカ人の平均年収。
『雁図屏風』雪村周継
他にも狩野永徳の屏風『葡萄棚図屏風』が750ドル。
フリーアが最も熱心に集めたのが俵屋宗達のコレクション。
『松島図屏風』俵屋宗達
監督「波には西洋的な奥行きは全くない。視点を動かすと全く別の表情を見せる。さまざまな方向へうねる波。まるで意思があるかのようだ」
キュレーターのジェームス・ユーラック氏
「この屏風は堺の裕福な商人に依頼され宗達が1627〜30年ごろに描いたものだ。」
屏風はその後、寺に寄進され1900年ごろ、ある美術商に売却される。小林文七(ぶんしち)といいニューヨークの山中と親しくフリーアの好みを知り尽くしていた。
小林からフリーアへ宛てた手紙には、「寺の宝だったもので、3年越しの交渉の末やっとコレクションに収めました。宗達の大傑作と言っても過言ではないと思う」
キュレーター「そして1906年にフリーアはこの作品を手に入れた。フリーアは当時忘れられていた宗達が再評価されるきっかけを作ったと言える」
当時の日本、あらゆる分野で西洋の影響が強くなり宗達の名も埋もれていた。
そんな時代にフリーアの心を捉えたのは生き物のような荒波。
ハーバード大学
アメリカで最も日本美術の研究が最も進んでいるハーバード大学・日本美術のラボ。
その第一人者ユキオ・リピット教授。
(と、ここで録画の失敗が判明。録画というか、コピーが失敗していたようです。とほほ)
どなたかなぁ
(突然、別の話まで録画が飛んでしまいました)
『雑木林図屏風』宗達派
この屏風の前で1人の男性が喋っています。どなたなのかな、すみません。
「この屏風は想像を越えた見方で描いている。いったい、この絵は見る人の視線をどこに設定しているのか?これは植物を上から見ているのか?」
アメリカ人が、この絵に感じる不思議。どこに見る人の視線はあるか?
「そして植物のディテールは超リアリズムとも言える手法で描かれている。さらに目をみはるのは余白の使い方」
(確かに、何も描かれず金箔だけが貼られた空間が広がっている箇所も)
「人間の想像力はいつも技術より先を行く。巨大なコンピューターの画面をズームインやズームアウトするような発想だ」
生涯独身だったフリーアが残した言葉。
「私は美術品を見て暮らすのが最高の喜びである。かりに妻を迎えても美術を愛する以上に彼女を愛することはできないだろう」
フリーアの遺言により、作品は門外不出。日本へはおろか、館外へ持ち出すことすら許されていない。
「西洋のコレクターは深い知識はなかったが、自分の目に頼り見事な作品を収集してきた。時を越えて日本の専門家と西洋の美術館やプライベート・コレクターが共同作業で作品を守り研究してきた。作品には守り神が必要であって我々は皆小さな役割を果たしている」
明治学院大学教授・山下裕二氏
なぜ江戸時代の絵師がアメリカ人の心を掴んだのか?
山下氏「西洋の美術っていうのは基本的に人間の目から見た自然ですよね。だけどね日本の絵の考え方っていうのは人間は自然の一部であって、まぁ神の目で見た自然を描こうとしてるんだと思うんですよね。だからいわゆるこうパースペクティブ、遠近法とは違う描き方をしてるわけですよね。
そもそも人間の目で見たものを、そのまんま描くっていう意識がないわけですよ」
監督「それってすごい何かミラクルな発想ですね、人間が描いているのに」
山下氏「いや、それがむしろ当たり前だったんですよ。だから、そこが大きな前提の違いですよね。見えてるものをそのまんまを再現するんだったら、絵なんか描く必要ない。そういうことかもしれないじゃない、逆に言えば。当の日本人が、ちょっと明治以来卑屈になってきた歴史があるから。西洋から美術っていうものがどっと入ってきて美術っていうのはこういうものだって。それに付き従わなきゃいけないみたいにして150年きた歴史があるからそれでね日本の美術っていうのは遅れたものだみたいに当の日本人が思い込んでしまった。
アメリカのコレクターたちはですね日本にやってきて自分の目で見て買ってますよね。日本人はあんまりちょっとこういうものは評価してないけれども、自分の目にはこれはすばらしいものに見える。そうするとどうしても日本のマーケットっていうのは、それまでの格式とかにとらわれて、これはこの画家の作品だから高いけど、この画家はあまりネームバリューがないから安いみたいな。だけど、そうじゃなくて作品そのもののクオリティーから、で判断すれば何かこんないいものがこんなに安いじゃないかと思って買えたものがたくさんあるんだと思うんですよね」
京都・修復工房
修復工房社長・岡 岩太郎氏。
岡氏「今、我々のところに何百年も経って残ってるものっていうのはほぼ奇跡でしかないと。たくさん戦争とかいろんなことが…事故があってどんどんなくなっていった中の本当にごく一部が我々のところに来ていますから。もう奇跡的に救われたっていうことだと思います」
「この会社はちょうど120年前に設立されまして私で4代目になります。一般的には、まあ100年から150年に1回修理をすればかなりいい状態で次の世代へ手渡せるというふうに考えています」
「日本の絵画の修理のいちばん大事なところは、この裏に貼ってある(紙を補強するために貼られた)裏打ちの紙を全部一旦取り除く。一番難しいけれども絶対にしなければならないことです。
ゆっくりと水を与えてピンセットでちょっとめくって、また水を与えてちょっとめくってという非常に手間のかかる作業を行います。」
(画面には、劣化が進んでおり1日作業して20センチ四方しか進まないという絵を作業する様子が映っていました)
「この仕事は嫌いだと地獄のような仕事なので、絵が好きで文化を守るということに興味があって仕事に一生をささげるっていう気持で入ってくる人がほとんどですね」
コレクター3 エイブリー・ブランデージ
1941年、日本は真珠湾を攻撃。アメリカ政府は日本に宣戦布告し、アメリカにある日本人の私有財産を凍結。
翌年、山中商会の美術品は全てアメリカ政府に没収された。画廊は閉鎖。
1944年、美術品は残らず競りにかけられることになった。そこで数多くの作品を買ったのがエイブリー・ブランデージ、美に魅入られたアスリート。
ブランデージのコレクションが収蔵されるアジアンアート美術館。集めた7700点をもとに創設された。
キュレーターのローラ・アレン氏「ブランデージはシカゴの土地開発業者でビジネスマンとして大成功した人でした。若いころは陸上選手で1912年のオリンピックにも出場しました。収集を始めて15年ほどたったころには数が増えすぎて置く場所もなかったと言います。ここにある作品は、彼の30年以上の収集のたまものです」
コレクションは根付から始まり絵画へと発展。
『富士山図屏風 三保松原図屏風』狩野探幽
視点を動かすと表情が変わる風景。折れ曲がった屏風は立体感を作り出す。
「狩野探幽は狩野派が徳川将軍の御用達となり京都から江戸城へ移った際指揮した人物。探幽は狩野派の画風をより空間を生かした軽やかなものに変革した」
『海月図』長沢芦雪
「長沢芦雪は18世紀後半の京都出身の画家。奇才と言われることもある。」
『壁にカタツムリ図』長沢芦雪
長い線と、線の先にカタツムリだけが描かれた絵。
「私は偉大な絵師だと思っている。芦雪は墨の水に溶ける性質を生かして効果的に直線を使い新しい画風を切り開いた」
『那智瀧図』長沢芦雪
この絵も大部分は白いまま。空白と、まっすぐ引いた線だけ。それだけで伝わる雄大な滝の動き。
キュレーター「ブランデージは美術の収集活動に真剣で日本への旅行中は丹念にメモを取った。誰よりも先に作品を見ようとした。ブランデージは日本と日本美術を愛していたと思う。残された記録を見ると戦時中も日本に温かい気持ちを持ち続けていたことが分かる」
『猿図』森狙仙
『松竹梅図屏風』円山応挙
まるで木々をくぐっていくような立体感。
『鹿蝙蝠図』柴田是真
『鶴図屏風』狩野氏信
この絵はブランデージが入手後、長年一般公開されていなかった。
キュレーター「いくつか大きな破損があり2014年ようやく修復が終わりました」
日本美術の守り神によってよみがえった絵。
監督「多くの美術商と取引をしましたが請求書には山中商会が頻繁に現れますね」
キュレーター「ブランデージは山中商会のニューヨーク店支配人・白江信三と大変親しかったようです。美術について白江から多くを学びました」
真珠湾攻撃後も白江と連絡を取り続けたブランデージは、アメリカ政府が没収した作品の多くを購入。海を渡った日本美術の散逸を防いだ。
太平洋戦争直後、混乱の中にあった日本。
町は荒廃し政府は国費を賄うため財産税を課す。日々の糧をしのぐため美術品は二束三文で流出。
山下氏「第2次大戦が終わった直後から1960年代ぐらいにかけては、やはりすばらしい作品を伝えてきた家がですね、あるいはお寺もそうだけれども経済的にやっぱりかなり困ってそれを手放すっていう状況があったわけですよね。で、雪村の最高のレベルのものは実はアメリカにあるんですよ。クリーブランドの『龍虎図(りゅうこず)』」
クリーブランド美術館
アメリカ東部オハイオ州クリーブランド。
先史アートから現代美術まで幅広いコレクションを誇る全米有数の美術館。日本美術も充実している。
キュレーターのシネード・ヴィルバー氏
「海外にある雪村の作品の中でも最も重要な作品です。シャーマン・リーが美術館にいた時に購入しました」
コレクター4 シャーマン・リー
日本の美を買い叩いた男。
(いや、私が言ってるんじゃないですよ。ナレーションが、そう言ってました)
『燕子花図屏風』渡辺始興
金箔が池の水を表現。
キュレーター「渡辺始興のこの屏風はシャーマン・リーが日本の尼寺から購入したものです。リー氏は当時、一帖(じょう)25ドルで手に入れました。
シアトル美術館
シャーマン・リーがキュレーターを務めたもう1つの美術館。
キュレーター「1948年に幸運にもシャーマン・リー氏を副館長として迎えることができました」
『駿牛図』作者不明
「リー氏が現役の時代に当館の最も貴重な作品がそろいました。それがこの駿牛図と鹿下絵和歌巻です」
繭山(まゆやま)順吉は戦後すぐにアメリカの美術館やコレクターに売り込んだ日本人美術商。貴重なシャーマン・リーの肉声が残っている。当時のいきさつを後に振り返った録音。
リー氏「繭山から宗達と光悦の鹿下絵和歌巻の長い断簡があると電報が届いた。名高い作品だが何にも登録されていない、と。奇跡だと思った。興味あるか?絶対に欲しい、いくらだ?値段は5000ドル。僕は館長に、これは一生に一度の機会ですとかけあった。しかし、彼は買いたくないといった」
キュレーター「そこでリー氏は美術館の大事なパトロンのフレデリック夫人を訪ねた。彼女なネルソンフレデリック百貨店の創設者の未亡人で、動物が大好きだった」
リー氏「見せたいものがあるので、今から伺っていいですか?と電話をかけ車で向かった。彼女はロバを室内で飼っていた」
キュレーター「ロバの名前はアイリス」
リー氏「彼女は鹿の絵巻に一目惚れ。繭山に早速送ってくれと電報を送ったら彼が自分の手で運んできた。海外にある最も貴重な日本の絵だ。今日本にあれば200万〜300万ドルはするだろう」
シャーマン・リーからフレデリック夫人へ渡ったのは鹿の絵巻だけではない。
『鶴葦絵硯箱』本阿弥光悦
リー氏「美しい漆の箱を買った。5000ドルぐらいだった。江戸初期の漆の箱の最高級品だ」
キュレーター「鹿下絵、駿牛図、光悦の鶴の漆箱。どれも動物がモチーフです。全てフレデリック夫人が寄付してくれた作品です」
(もし、夫人が動物好きでなかったらこれらの作品が今どこにあるかは分からなかったわけですよね……偶然なのか、芸術品の持つパワーなのか。そして何かに登録されていたら日本を出ることは無かったわけですよね。まぁ、それを言ったらきりがないし。どうしたって生活のほうが大切なわけで。そういう意味では、美術品の宿命なのでしょうね。誰が所有するかというのは当然だけど作品が選べることではなく、力、お金のあるところへ移動していく、という。ただ誰が持っていてもコレクターなり、美術館が”守り手”としての作品は保護されてきたわけだし)
LONDON GALLERY
シャーマン・リーをはじめ、戦後日本に乗り込んできたコレクターたちをよく知る美術商が今も健在。
東洋美術を専門とする美術商・田島充氏。
「こういう自然な花を(花瓶に)入れるとなかなか似合うんじゃないかなと思ってね、使ってるんですけど」
「日本とアメリカと戦争があって日本は負けたわけですね。シャーマン・リー先生はちょっと強引なところがありまして、やっぱり進駐軍ってのはその当時はものすごい力がありましたから”おい、君んとこの持ってるものをちょっと見せてくれ”って言って見ることが出来た。だから特に学者さんから嫌われてました。いいものを持ってっちゃうと。アメリカへね」
白洲正子に天性の目利きと評されるなど田島氏は若くして美術商としての才能を認められた。福井県出身。父親は骨董好きの医者。幼い頃から骨董に親しんでいく。
少年時代、進路に悩んでいた時に出会った一冊が『歩いた道』廣田不狐齋。
「骨董やさんで壺中居(こちゅうきょ)の創業者で『歩いた道』というタイトルの本なんですけども読んでみると面白い。子供の時分からそうやって骨董が好きですから、よし美術商になってやろう!という決心しました」
1957年、田島氏は21歳で上京。程なく、小さな古美術商の店を開く。店を開いてすぐに出会ったアメリカ人の客が田島氏の運命を変える。
「ハリー・パッカードですね」
コレクター5 ハリー・パッカード
日本美術の錬金術師。
田島氏「日本語べらべらで。これはなかなか目利きだな、という印象でしたね。扱ってるもののレベルが違いますよね。僕はまあせいぜい高くても40〜50万。パッカードは100万、200万、300万、時には1000万のものもあるかもしれませんけど」
戦時中、海兵隊員だったパッカードは日本語を覚え来日。当初は浮世絵のコレクターだった。
『花菖蒲に白鷺』歌川広重
『甲陽猿橋之図』歌川広重
初めは何度も偽物をつかまされるも、見る目を磨いたパッカードは二束三文で手に入れた美術品を高値で転売。
(あの、これも私が思ったんじゃなくて、ナレーションです)
錬金術のようにコレクションを充実させていく。
田島氏「親しくそれでやっているうちにアメリカへ一緒に行こうかという話をしてくれましてね。もうそれは若い時からねアメリカへ行くっていうのはもう夢でしたから。それを言われただけで本当にうれしくて。是非行きますから連れてってください、ということで。ただ行くんじゃこれは意味がないんで商売しろと」
1963年、秋。2人はサンフランシスコへ。
田島氏「荷揚げをしなくちゃいけない。日本から送った荷物が着くのがですね。(運んだのは)かなりの量ですよ、これ」
(ちゃんと持っていった作品を1枚1枚写真に撮ってあるようです。アルバムの厚みがすごかったです)
田島氏はパッカードと組んで大量の美術品をアメリカへ持ち込み、ワゴン車に積み込んで売りさばく計画を立てた。
サンフランシスコからロサンゼルスへ。
田島氏「ロサンゼルスでは4〜5人のコレクターが見に来てくれましたね。(道中では)お前のドライビングライセンスをここの警察署行ってもらおうじゃないかと。警官も親切でね。日本に住んでたことがあって。で、いい思いをしたことがあるらしいんですね、戦後に。それでベリーフレンドリー。クエスチョンは3つで終わり。アメリカってとこはいいとこだなと」
(お店の名前にアメリカは入れなかったんですね、いや余計なお世話でした。失礼)
数千キロのドライブの末、2人はシカゴへ到着。2人を待っていたのは、あのブランデージ。
田島氏「ホテルへ宿泊したわけですけども、そのホテルのオーナーがブランデージさんなんですね。それでそこの部屋の中にず〜っと持ってきたものを並べる部屋が2つ。ブランデージさんは、ちゃんとした目を持ってらしたんだろうと思います。その…チョイスがいいですからね」
『阿弥陀来迎図』作者不明
その時、田島氏がブランデージに売った作品のひとつ。今ではアジアンアート美術館の重要な作品。
田島氏「何しろごっつい人でした。ええ、それが毎朝来て難しい顔して見て歩くんですけどね。気に入らないと、それをピュッと持って隣の部屋へ。で、残ったやつをトータルでいくらと。それをまた値切られて。ふははは。とにかくネゴシエーションが非常に強い人で。恐らく三十何点買ってもらったと思うんですね、その時」
しかしその後、田島氏はパッカードと決別。
田島氏「あの〜売れたものが…まあこんなことねあんまりあれなんですけども、払ってくれないわけですね。ええ。いくらかはもらいました。だけど恐らく何分の1だと思います。まぁそんなことなんで、ちょっと喧嘩をしたというかですね。ですからそこでパッカードとの縁が切れちゃったわけですけども。アメリカはその…勝った国ですよね。ですから多少やっぱり日本人に対して馬鹿にしてるようなところがあったかもしれませんね、うん。だからあの、何やってもいいんだというようなことを思ってたかもしれませんね」
1975年、パッカードはメトロポリタン美術館に400点のコレクションの売却取引を持ちかける。
狩野山雪『老梅図襖』もそのひとつ。
パッカードは戦後のどさくさを利用して京都の旧家にあったこの作品を入手。『老梅図』に惚れ込んだパッカード。襖の裏には別の絵があり両方合わせ150万円で購入。
裏の絵だけすぐその値段で売ったため、手元に残った『老梅図』はタダ同然で手にしたことになる。
アシスタントキュレーターのモニカ・ビンチク氏「パッカードは収集することにこだわった。お宝があるとお金がなくてもどうにか手に入れようとした。日本の寺を訪ね歩き、その目で最高の美術品を吟味した」
『集一切福徳三昧経』作者不明
当時、メトロポリタン美術館の日本美術はまだ充実していなかった。
『桜下絵和歌色紙』本阿弥光悦書、俵屋宗達 下絵
アシスタントキュレーターの「70年代にはパッカードのコレクションは400点を超え、考古学の出土品、鎌倉時代の絵巻、江戸時代の掛け軸や屏風、そして仏像と広範囲に渡っていた」
『山水唐人物図屏風』長沢芦雪
そこに目をつけたパッカードは、とっておきの作品をメトロポリタン美術館へ売却することに。言い値は1000万ドル。
『白鷺図』円山応挙
しかし、自分の名前をコレクションに残せば値引きすると持ちかけ(は?!)半分の500万ドルで取引成立。
(自分の名前に500万の価値があるって?!?!?!すみません、取り乱しました)
パッカードは金と名誉を手に入れメトロポリタンは一気に全米有数のコレクションを入手。
『月に秋草図屏風』柴田是真
『月に秋草図屏風』俵屋宗達工房
田島氏「彼はね、ものすごい執着心、美術品に対する。それを人並みに外れたものを持っってた人間だというふうに僕は思いますね。半端なものじゃなかったですよ。まあとにかく、いいものを買ってやろうという、その強い執念というかですね」
キュレーターのジョン・カーペンター「パッカードから購入した、このすばらしい不動明王。見た目は怖いけれど”守り神”としてここで美術館に来る客を歓迎しています。どうぞ展示作品をご覧ください」
『白鷺図屏風』柴田是真
柴田是真は日本よりも海外で人気。
(そうなんですね?私、日本でも人気あるのかと)
キュレーター「これは柴田是真の二曲一隻屏風。白鷺の白とカラスの黒を金箔の背景に対比的に配置してある。構成が素晴らしい作品だ」
(またここでコピーが失敗していました!残念)
コレクター6 メアリー・グリッグス・バーク
キュレーター「バークは日本を訪ね自然の美しさに魅了された」
日本を旅したバーク。心を惹かれた日本庭園。田舎の風景の素朴さ。そして美術品を収集し始めた。
やがて本格的に日本美術史を勉強。とりわけ自然や動物を描いた作品を好む。
『月下白梅図』伊藤若冲
幾度も日本を訪れ、より深く作品の背景まで理解しようと努めた。
2012年に亡くなった後、バークの1000点を越えるコレクションはメトロポリタン美術館とミネアポリス美術館に分けて寄贈された。
『芦雁・柳月図屏風』円山応挙
ミネアポリス美術館
1000点のコレクションのうち600点が寄贈されたのは、バークが生まれ育ったミネアポリス美術館だった。
副館長のマシュー・ウェルチ氏
「誰でも自由にアートを鑑賞できるようにすべきと考え、この美術館は創立時から入場無料です」
『狗子図』円山応挙
(うわっ、なにこの可愛い子たち!実物が見たい!!)
副館長「バーク・コレクションは我が美術館にとって重要です。既存の日本美術コレクションと合わせて一層すばらしいものになっています」
『白梅立葵図屏風』尾形乾山
『肘下選蠕』森春渓
バークが愛したのが、この鶴の絵。
『群鶴図屏風』石田幽汀
副館長「石田幽汀はあまり知られていませんが円山応挙の師匠だった絵師です。幽汀は鶴の群れを描写しようと試み、ありとあらゆる鶴の姿を描いています。慎重に鶴を観察しリアルな群れを描写しています。バークは大好きな鶴を見るため北海道まで旅をしました」
『大麦図屏風』作者不明
副館長「この屏風で注目すべきは地味なテーマを豪華に描いている点です。16世紀から17世紀にかけて絵師たちは身の回りの何気ない世界に注目し、まばゆい金の屏風で表現しました」
ただ麦の穂が広がるだけ。素朴な日本の風景をバークは愛した。
『波に船図屏風』俵屋宗達工房
副館長「彼女は日本文化を深く尊敬していました。そして作品のもろさをよく理解していました。どんな小さな傷でもすぐに修復工房に送って直してもらっていました」
1985年、バークのコレクションが日本に里帰り。東京国立博物館で外国にある日本美術のコレクションが展示されたのは初めてだった。
(ニューヨーク・バークコレクション 日本美術名品展というタイトルだったようです)
監督「守り神たちは海を越えて作品を守り続けている。
副館長「近世の日本の町は全て木造で幾度となく大火事に見舞われていた。失われてしまった作品の数は想像を絶するが、今日まで残ったものはより貴重に思われるのです」
ちょこっと感想
いろんな偶然や、人との出会いで作品の運命が変わっていってしまうんだなぁ、としみじみ感じました。
フレデリック夫人が動物モチーフを好きでなかったら、果たしてどうなっていたのか?とか。
美術の守り手たちによって、これからもまた作品は大切にされ、受け継がれていくといいなぁと思わずに入られません。