山種美術館で開催されていた《日本画の教科書展 京都編》について
書こうかと。
すでに東京編が始まっちゃってますが、京都編について。
まずは、主催者の方の挨拶を読んだ時点で「これは面白そうな展示だ!」と
興奮しまして。メモを取り始めました。
写し間違いや変換間違いなどあるかもしれませんが、ご容赦ください。
明治時代以降、大きく様変わりする環境の中で日本画家たちは流入してきた西洋画を強く意識し新時代にふさわしい日本画を模索し続けてきました。 なかでも京都は平安時代以降の”やまと絵”の表現や江戸時代の円山四条派から続く写生の伝統などを受け継ぐ一方、日本美術の発展のために日本初の画学校を開校させるなど、革新的かつ組織的に取り組んできました。そのような背景の下、近代を代表する画家であり教育者でもあった竹内栖鳳や女性初の文化勲章を受章した上村松園など才能豊かな日本画家たちが数多く活躍しています。伝統を尊重しながらも新たな要素を次々と受け入れていく京都の柔軟な土壌が日本画に様々な可能性をもたらしたといえるでしょう。
日本の工芸品などは海外の顧客の好みに合わせるため作風を変化させたり
することがあった、という話は聞いたことがあったのですが。
そうか、そうだよな、逆に海外から入ってくるものもあって。
日本画との違いに驚いたり興味を持ったり、色々と反応があったんだろう
なぁ、と。
第1章 近代京都画壇と美術教育
すみません、最後の最後の○○は自分のメモの字が読み取れないという。無念。
なるほどなぁ。
現在では絵画に関する基礎的な知識や技術は学校の美術の授業で習うし、
もっと専門的に習得したければ美術関係の学校へ行くというのが一般的な
感じが。
もちろん独学で道を究める方や、他の方法を取られる方もいらっしゃるかと。
当時は、絵を習いたかったらお師匠さんを見つけて弟子にしてもらう
ところからスタートすることが多かったんだろうなぁ、と。
今さら、そんなことを実感しました。
本当は各流派で守ってきた技法とかもあったんじゃないかしら???
そうゆうのは、授業でちゃんと公開しようね!とか約束したのかしら、
とか妄想してみたり。
初代校長の田能村直入氏のことをウィキペディアで読んでいたら
各画派の衝突が絶えず明治17(1884年)に責任をとって辞職
と書いてあるぐらいなので。
色々と大変だったのではないかと、これまた勝手に思ってみたり。
展示のトップバッターは竹内栖鳳の『斑猫』。
京都画壇で指導的役割を果たし、「動物を描けばその体臭までも
表す」といわれた描写力と洒脱な画風で高く評価された。
体臭までも表す、という表現が凄いというか。
そう表現した人にお会いしたい!と。
絵のモデルとなった猫の写真も展示されていました。
(資料提供:海の見える美術館)
旅先の沼津で見かけた猫から徽宗皇帝の猫の絵を想起し、表現欲が
湧いてきたという。
その猫を譲り受けて連れて帰り写真撮影や写生を繰り返した末に
完成したのが本作品。瞳や毛描き(けがき)に金泥を用いるなど江戸時代以前からの
手法に準じながらも写実性、迫真性にとんでおり伝統的な絵画表現を
活かしつつ新たな動物画の境地を開拓しようとした画家の姿勢がみて
とれる。
美術館へ入り、まず『斑猫』が見えたときの迫力たるや!
ただ、あの位置だと残念ながらショップの照明が作品に反射してしまい
正面から見えづらいのだけが残念。
今回の展示に限らず、前からそう思っているのは私だけでしょうか……
少し横へずれれば大丈夫なんですが。すごく、もったいないような。
でもショップと展示室を区切るわけにもいかないだろうし……。うむむ。
田能村直入『百花』
四季の花100種を描いた折枝画(せっしが)の花卉図巻。
国公の命により100種の草花を描くことになったが忘れたものも
少なくないので、この図巻を試作し四季の草花を詳しく調べ、その
名称を併記する。
一種の植物図鑑的な性格をおびている。
中国・清時代の写実的な没骨花鳥画の様式にならうが濃厚な色彩や
密度の高い描写には直入の個性がよく表れている。
なにしろ綺麗な配色でうっとり。
ショップにマスキングテープが売られていたのですが、購入し忘れたので
次回こそは購入してこようと思います。
ここから先は、まとめて竹内栖鳳作品についてご紹介。
竹内栖鳳が学校で教鞭をとった歳月は約40年とか!
栖鳳の娘婿である西山翠嶂によると
「芸術上に関しては峻厳な態度であったが一面、門人の自由を
みとめられて個々の力量に応じ、その力を十二分に発揮し得るよう
仕向けられた
竹内栖鳳『晩鴉』
茨城の水郷・潮来(いたこ)に取材した作品とのこと。
「現代人の眼で見た大きな空間を横長の画面に描きたい」とこの頃
言っていた。
伝統的な水墨表現と向き合いながら、同時に類型的な表現脱却しようと
していたことが分かる。
左下のカラスは本来うしろにつき出すはずの尾をわざと下へ向けることで
単調となりがちな水墨風景の画面の力点としたことを栖鳳自身が
明かしている。
枝の表現や、墨のにじみ具合が好きだなぁ。
竹内栖鳳の言葉が紹介されていました。
写生したものが皆絵になるものではない。写生は絵になるものを
探す手段だ。
写生が天然自然から画家自身で絵になるものを探し出す手段ならば
古画は先達がどんなに自然を見たかの心の跡を偲ぶ材料だ。
竹内栖鳳『憩える車』
描かれているのは五位鷺(ごいさぎ)という鳥だそうです。
本作品のもとになったと思われる写生にも同種(羽にくちばしをうずめて
休む)の仕草をする鷺が何度も描きとめられている。
竹内栖鳳作品は、ほかに
可愛いなぁ。
『艸影帖・色紙十二か月』から、いくつか展示されていたような。
2つぐらいでしたでしょうか??
この鯛の目元のブルーが綺麗だったなぁ。
『城外風薫』
こちらもブルーの綺麗さに、まず目がいきました。
竹内栖鳳というと、私のなかでは動物を描くというイメージが強いので
最初は、この絵を竹内栖鳳作品として見ていなかったという…
絵をみてからタイトルと画家の名前をみてビックリ。
『萬相亭』都路華香
大正9年、朝鮮半島に渡って金剛山を訪れ翌年にはその体験に
基づく26点の作品を発表。そのうちの1つ。
幸野楳嶺(こうのばいれい)に師事。門下の四天王にかぞえられる。
私のメモには、クッキーのアイシングみたいに盛り上がってる!と。
はて。一体、どこの部分のことだったのやら。
ちなみに、四天王の残り3人は菊池芳文、谷口香嶠、そして竹内栖鳳だと
ウィキペディアが教えてくれました。
展示に菊池芳文もありまして
竹内栖鳳らとともに幸野楳嶺の四天王。花鳥画の芳文として不動の名声
と説明にありました。
ウィキペディアで幸野楳嶺の項目を読んでいたら興味深いエピソードが。
かいつまんで書きますと、占い師さんに「一流の画家になれるか?」と
聞いたところ「残念ながら画家としては二流。ただ、育てた人のなかから
一流の絵描きが必ず出る」と言われたと。
ほほー、すごいなぁ。確かになぁ。
二流の画家と言われても怒らず、ならば教えることに力をいれようと思った
幸野楳嶺もすごいし、自分を越える人物を育成できるって面白いと表現したら
おかしいのかもしれないけれど。
名選手、名監督にあらず、じゃないけれど。
こうゆう人間模様が垣間見えると、ぐぐっと鑑賞が面白くなりますよねぇ。
長くなりましたので、続きは次回へ……。