奥村土牛 PR

『奥村土牛 画業ひとすじ100年のあゆみ』展

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

奥村土牛展のチケットに使われていた作品。

高校の美術の時間に、奥村土牛の≪醍醐≫という作品であることを知りました。

 

綺麗な桜の絵だなぁ。実物が見てみたいなぁ。

と思いつつ、どこで見ることができるのか、までは考えなかったあの頃。

 

それから数年後、この絵が美術館で見られるという情報が。

しかも国立の美術館とかではなく、どうやらどこかの会社が運営している美術館らしい。

「ほー、美術館って国だけがやっている訳じゃないんだ」と、どこまでも無知だった

あの頃。

(まぁ、その辺はあまり変わらないか。ぶつぶつ)

 

見たい絵があるからと美術館へ足を運んだのは、この≪醍醐≫が初めてで

私と”美術館”という存在を結び付けてくれた思い出深い作品です。

 

 

20年以上前に見に行ったときのチケットも大切に保管してありまして

そうそう、まだ兜町にあったときでした。

初めて行く場所に、ドキドキしながら行った記憶があります。

(それも今と全然変わらない、この方向音痴がなせるドキドキ)

 

 

≪醍醐≫を初めて見た印象は、綺麗と思うと同時に大きいなぁ!でした。

 

 

さて、本当に大きかったのか。

記憶の中で、大きくなってしまったのではないか…と思いつつ

展示室へ降りていきますと。

 

 

もう目の前に≪醍醐≫が。

正直、一番最初に展示されているとは思わなかったので心の準備(?)が

できないままに、初恋の人に出会ってしまったような。

いや、実際にはそんな体験ないですけれど。

 

あぁ、やっぱり綺麗だし、大きい。

調べてみたらタテ135.5×ヨコ115.8とのこと。

80歳を過ぎていても、この大きさを描ける気力と体力。

しかも、描きたいと思ってから10年以上の歳月が経過しているとか。

 

先日見た安田靫彦の≪飛鳥の春の額田王≫は19歳の時に見た風景を

60年かけて作品にしたものだというし、

画家の中で熟成されたものが作品になると、その人の代表作とも言える作品に

なるだけの力のこもったものになるんだなぁ、と。

 

それだけ長い間考え続け、形にしたいと思ったものは、より画家の想いが昇華され

反映されているんだろうな、などと思いながら見つめておりました。

 

そうか、そうか、幹はこんな感じに表現されていたのか。

桜の花びらも、盛り上がるように描かれている部分もあったのか、と。

20年経過しても、好きな絵を実際見られるって嬉しいなぁ、としみじみ。

 

 

 

最初の≪醍醐≫以外は、ほぼ制作順に展示されているようでした。

 

【第1章 土牛芸術の礎】

 

大正12年 関東大震災で自宅を焼失し、家財道具も絵を描く道具もなくなった、と。

その状況に屈することなく、自宅近くの武蔵野の風景をスケッチしていたそうで。

甲州街道≫という作品を見て、皆さん口々に「まぁ、のどかな風景だわねぇ」

「昔は、こんな感じだったのねぇ」と仰ってました。

 

大正15年に麻布へ転居し、当時の赤坂を描いたのが≪雨趣≫とか。

細かい雨の線と、雨にけぶる風景が印象的でした。

 

 

個人的に山種美術館を好きな理由の1つとして

作品と共に画家の言葉を紹介してくれるところがあります。

長年、絵と一途に向き合ってきた人々の言葉って重みがあるなぁ、と

毎回うんうん唸りながら帰ります。

 

 

奥村土牛制作において外面的な写生にとどまることなく

根気よく観察し描く対象の「物質感、つまり気持ちを捉える事」を重要視した

画家だと説明にありました。

同様に色彩についても信念を持ち、色は見たままではなく

「本当の色の気持ちを捉え」、その色は「精神を意味したものでなければならない」と

考えたといいます。

 

見たままを描くことも、色を再現することも出来ない私にとって

最初の、この文章からすでに恐れ入りました、と。

画家の描きたいこと、絵を通して伝えたいことなどを完璧に把握することは

難しいとは思うのですが、なんか、こう、私なんぞどれぐらい画家の方たちの想いを

理解できるんだろうか、と。

ちょっと申し訳ないような気持にもなりました。

それは絵画だけでなく、映画でも音楽でも、文学でも当てはまるのですが。

 

 

さて、今回の展示には動物を描いたものが何点も展示されておりまして。

 

昭和初期の院展出品作には鳥や猿、仔馬など動物に取材したものが多く

鋭い観察に基づく描写が際立っている

 

とのこと。

 

「目が美しいから生きものを描くのが好き」

「動物は見ているうちに愛情が湧いて楽しく描くことが出来る」

とも仰っていたようです。

ペルシャ猫やシャム猫といった珍しい猫がいると聞くと写生にも出かけたとか。

動物がお好きだったんでしょうねぇ。

犬の絵が1点だけしか展示されていたこともありますが、もしかしたら土牛さんは

猫派だったのかしら、なんて勝手に妄想。

 

 

≪兎≫という作品は、毛のふわふわ感、まんまるいからだ、ヒゲのポツポツまでもが

可愛かったです。

 

 

≪春光≫という作品は、鹿が銀色??でふちどりされているように見えて

春の光を、こうゆう風に表現されたのかなぁ、と思ったり。

 

 

【第2章 描くこと 見つめること】

 

≪聖牛≫という作品は、善光寺にインドから牛が2頭贈られたと聞いて

息子さんと見に行き、一週間かけて写生したと説明にありました。

その情報収集を怠らない姿勢と、実際に見に行く行動力。

丑年生まれの土牛さんは、初期から晩年に至るまで数多くの牛を題材とした

作品を残されているそうです。

 

 

≪鹿≫という作品。遠目では分からなかったのですが、近くで見ると

鹿の背中の濃い茶色の部分がピカピカしてました。

このあとの展示の中で≪門≫という作品をあとで見たのですが、この時も茶色の門の

一見すると、ただ濃い茶色が塗られているように見えた部分もキラキラしてました。

うーん、このキラキラが何か効果あるんだろうなぁ、としか分からない自分。無念。

 

 

≪城≫は、姫路城をモデルにしているそうです。

この石垣が、本当に石垣で。

と、説明にならないことを書く私。

石垣ここにあり、というぐらい絵の中に石垣があったんです。

下から見上げた姫路城の構図も、とても美しかったです。

 

このあたりの土牛さんの言葉で「無難なことをやっていては明日という日は

訪れて来ない。毎日そう考えるようになっていった」と。

この前後の言葉もメモしてくるつもりだったのに、すっかり忘れてしまい。無念。

 

 

姫路城の「はの門」を描いたのが≪門≫という作品。

かつて姫路城には、いろは順に名付けられた門が15、その他の門が69あり

合計84の門があったそうで。現在は21残っているとのこと。

風景作品では、≪醍醐≫、≪鳴門≫そしてこの≪門≫が好きです。

 

「はの門」を写生している土牛さんの後ろ姿の写真も展示されていました。

 

 

≪鳴門≫という作品を制作するために、阿波の鳴門へ写生に行ったときのこと。

揺れる船の中で、奥様に着物の帯をつかんでいてもらいながら必死に写生されたと

説明がありまして。

写真で済まそうとか、見ただけで済まそうとか、そうゆうことではなく

実際に自分で描くという姿勢を貫かれたんだなぁ、と。

 

≪鳴門≫の構図を決定するために制作された画稿も展示されていたのですが、

大きさは23.3×33.7とさほど大きくなく、しかも鉛筆によるものなのですが、

その渦の迫力たるや。

 

 

≪舞妓≫という作品は2年かけて完成させた作品だそうで。

その間に3度京都を訪れ、出品の一週間前まで京都に滞在していたとか。

うむむ、その粘り強さ。

 

 

≪稽古≫という作品は、力士たちの稽古の場面。

お相撲が好きだった土牛さん。

「相撲は人生の縮図でもあり、勇気をもらう存在。

さらには絵画と同じ芸道のひとつだ」と仰ったそうです。

 

 

≪僧≫という作品は

「仏像を彫刻的に表現するのではなく生きた人間の気持ちで描き、

人の姿を借りて自分の心を表そうと試みた」と。

若い頃から、釈迦十大弟子立像(興福寺)に心惹かれていたという土牛さん。

現存する六像のうち、舎利弗像(しゃりほつぞう)、目犍連像(もくけんれんぞう)、

須菩提像(すぼだいぞう)、羅睺羅像(らごらぞう)を写生する機会があったそうで

数年かけて写生されたそうです。

 

六像は、興福寺公式ホームページで見られます。

 

 

 

≪蓮≫という作品も個人的に好きです。

 

法隆寺近くの寺の池に咲くこの蓮の花は、赤い蕾が開くと白くなり香高いのが

特徴だそうで。

花の芳香と新鮮な色が失われないよう、土牛さんは毎朝4時に起きて池で写生を

したと説明に書いてありました。

 

花や葉は輪郭線を用いずに描かれ、色の濃淡だけで質感と奥行きを表現している、とも。

 

花の香りまで絵に取り込もうとしたように思えて、しばし立ち止まり蓮の香りを

思い浮かべつつ見ておりました。

 

 

【第3章 白寿を超えて】

 

第3章の最初に紹介されていた土牛さんの言葉。

 

私の仕事も、やっと少し分かりかけてきたかと思ったら八十路を越してしまった。

(中略)

芸術に完成はあり得ない。

要はどこまで大きく未完で終わるかである。

 

うむむ。

16歳ぐらいで小林古径氏に師事してから64年。

日本画一筋に歩まれてきたというのに、やっと少し分かりかけてきた、と仰る。

うむむ。

 

唸るしかできませんでした。

 

 

日本百名山の一つを描いた≪谷川岳≫。

「非常に親しみのある、明るくやさしい山」と仰ったそうで。

険しい山並みながら、どこかゆったりとした感じが絵から伝わってきた気がします。

優しい緑と茶色が印象的な絵でした。

 

 

今回の展示で、私が一番好きなエピソードが添えられていた作品は

≪朝市の女≫。

 

昭和44年7月、息子さんの運転する車で能登旅行へ出かけられた土牛さん。

朝市で見かけた若い売り子さんを写生。(その素描も展示されていました)

 

ですが、現地での写生だけでは飽き足らず。

売り子さんと同じような白木綿と絣の衣装や笠を購入して持ち帰り、

自宅で三男の妻に着せて写生を繰り返した、と。

 

いやぁ、お嫁さん驚かれたでしょうねぇ。

義父が旅から帰ってきたと思ったら、お土産(?)が白木綿と絣の衣装、そして笠。

ずいぶん変わったお土産だなぁ、なんて思ったら、写生したいからそれを着て座って欲しい、

などとお願いされたんでしょうか??

 

しかも、1回や2回じゃないんでしょうねぇ。繰り返した、という表現からすると。

いやぁ、なんだか勝手にその状況を妄想して会場で一人笑ってしまって。

奥村土牛の頼みじゃ断れないですよね。

でもポーズだけで、顔は自分じゃないんだなぁ、とかこっそり思ったりはしなかったんだろうか

などと、これまた妄想。

 

 

売り子さんの前に並ぶキスやヒラメなども、奥様と一緒に築地へ出かけて

気に入った色と形のものを購入して写生を繰り返した、と。

 

繰り返した、と。ふふふ。何度も行かれたんでしょうねぇ。

きっと夕飯に、その魚たちが並んだんだろうなぁ、とか勝手に妄想。

 

 

長くなりましたが、最後の一点。

≪海≫

 

乗り板(大きな作品の制作時、乗って描くための板)を用いた最後の作品、と。

土牛さんが乗り板に乗っている写真も展示されていました。

大きな大きな刷毛を手に、作品に向かう姿。

当時92歳。

「これ程思い出楽しく描いた絵はない」と仰ったそうで。

 

 

そうか、乗り板というんですね!

安田幸彦展の図録にも、大きな板に乗って≪黄瀬川陣≫という作品を描いている

写真が載っていましたが。ふむふむ、これだったのか。

 

海の輝きを出すためにプラチナ箔を貼った上から色彩をつけたとか。

なるほど、四角い升目みたいなものが見えるのは何だろうと思ったら箔だったのですね。

金箔にしろ、プラチナ箔にしろ、その上から絵の具がのるというのが不思議で。

 

今回は、いつもの小型版図録ではなく、作品集という形で販売されていました。

他の荷物が重かったので、次回購入しようと帰ってきたのですが。

いや、次回あるのか??と。

どうしても欲しくなったら、山種美術館通販で購入しよう。

 

 

絵葉書は2枚購入。

 

はてさて、次に≪醍醐≫を見られるのは何時になるのか。

その時、自分は何をし何を考えているのか??と、ぼんやり思う今日この頃です。

 

 

 

 

 

 

 

.