ウフィツィ美術館

ドキュランドへようこそ『ダビンチ 幻の肖像画』

2018年にフランスで制作された番組のようです。

果たして、この番組で取り上げられる肖像画は本物なのか?!
そして私が生きている間に、ダビンチの作品がさらに見つかることはあるのか?!?!

 

肖像画は誰が持っていたのか?

イタリアの美術史家であるニコラ・バルバテッリ。2008年に美術品収集家の男性から絵のコレクションの鑑定を依頼される。

約100点のコレクションの鑑定が終わるころに、もうひとつ見て欲しい絵があると言われる。ガリレオの絵で、オークションで売りたいのだという持ち主。

バルバテッリは即座にレオナルドの自画像だと思ったという。なぜなら、ウフィツィ美術館の絵とそっくりだったから。

ダビンチ本人による肖像画と思われていた作品

フィレンツェ最大の美術館であるウフィツィ美術館。そこにある絵は長年レオナルド・ダビンチの自画像だと考えられてきた。しかし、実際はレオナルドが死んでから100年後に描かれたものだと1938年に証明される。つまり複製画だった。

 

2008年に発見された肖像画は、発見された地名にちなみ『ルカーニアの肖像画』と名付けられる。

ダビンチ『ルカーニアの肖像画』

現存するダビンチの絵画は20点もなく、また彼の本当の顔は記録に残されていない。ダビンチによる自画像だと証明するには絵が描かれた年代を特定する必要がある。

 

16世紀のフィレンツェについて

『ルカーニアの肖像画』の男性は50歳ぐらい。もしダビンチの作品であれば16世紀初頭にダビンチが住んでいたフレンツェで描かれたことになる。

当時のフレンツェは絵画・彫刻そして建築の分野で起こっていた革新的な動き”ルネサンス”の中心地。

フィレンツェを支配していたのはメディチ家の人々。銀行業で得た富を芸術振興につぎ込む。

コジモが先鞭をつけ、孫の偉大なるロレンツォが一家の名を知らしめる。ロレンツォは建築と詩を愛しボッティチェリ、ミケランジェロ、ダビンチなど多くの芸術家のパトロンとなる。

フレンツェ一(いち)とされたのはアンドレア・ヴェロッキオの工房。彫刻家で画家だったヴェロッキオもメディチ家の支援を受けていた。

美術史家ロス・キング氏によれば

・当時12歳から14歳くらいの芸術家志望の若者は美術学校には行かず、名声のある画家や金細工職人、彫刻家などの工房に弟子入りしてその職業の極意を学んだ。

・工房では顔料のすり方や絵の具の塗り方に始まり、銀筆を使ったデッサンや製図法、最終的にはテンペラ画などを学ぶ。15世紀の終わり頃には油絵の技法も学ばれるようになる。

ダビンチについて

レオナルド・ダビンチ(1452〜1519)

1467年、15歳でヴェロッキオの工房で修行開始。祖業などの絵画から始まり、彫刻や建築、機械技術も学んだ。

1470年代に、ヴェロッキオとダビンチが協力して描いた作品『キリストの洗礼』。

ヴェロッキオが描き始めダビンチが仕上げた。

ヴェロッキオ『キリストの洗礼』

左下の天使はダビンチが描いたもの。

 

修復師

ジャンカルロ・ナポーリは年代鑑定に詳しい美術品の修復師。

あまりにも絵の状態がよく、最初に絵を見たときは19世紀に描かれた模写の一つではないかと思ったという。16世紀の作品にしては綺麗すぎる、というのが第一印象。

 

肖像画の洗浄が終わるとナポーリはバルバテッリに連絡。

洗浄後の絵には亀裂や傷が表面にでてきた。何世紀もの間に起きたパネル板の収縮で、細かいヒビも入っていた。このヒビはルネサンス時代の絵画によく見られる。

ここから『ルカーニアの肖像』は調査のためヨーロッパ中を移動することになる。

肖像画に使われた顔料について

ナポリにあるイノヴァセンターは、遺跡や歴史ある芸術品の科学調査を専門とする機関。

肖像画はX線解析のエキスパートであるジョヴァンニ・パテルノストロに託され、絵に使用された顔料の年代を正確に割り出すことになった。

パテルノストロ氏はナポリ大学の物理学教授。

顔料は古代から19世紀頃まで、ほぼ変化しなかった。もともと鉱物や動植物から作られ、合成顔料が開発されたのは18世紀か19世紀以降のこと。

研究者たちは肖像画に描かれた帽子の白い羽飾りに注目。

ダビンチ『ルカーニアの肖像画』

極端な白さが合成顔料なのではないか、と。そうであれば、ルネサンス時代の絵画ではないという証拠になるかもしれない。

頬の部分に使われた顔料をX線で調べたところ、アンチモンと鉛が多く見られた。ネープルスイエロー”ナポリの黄色”が色素として使われいたのではないかと。

この色が使われ始めたのが16世紀の初め。

ネープルスイエロー、バーミリオンレッド、インディゴブルー、アジュールグリーン、それらの色の原料の一部は有毒な物質で弟子たちが準備した。それらに玉子と油を混ぜた顔料で描くテンペラ・グラッサの技法は15世紀の終わり、次第に油絵に取って代わられる。

羽飾りの白には二酸化チタンが使われており、20世紀以前にはなかった顔料。つまり、羽飾りはどこかで修復される段階で書き加えられたものだろうという。

羽飾りに使われた二酸化チタンを除けば、肖像画の顔料は全てダビンチの時代のものと一致。

絵の土台

絵の土台について調べるために物理学教授フィリッポ・テラシ氏にも協力を依頼。

パネル板をX線にかけるため、まず絵の裏側から数ミリ単位の小さな木のかけらを3つ取り出す。

植物や動物などは皆、炭素14を体内に取り込んでいる。生物が死ぬと炭素14の量は少しずつ減少する。

そこで肖像画の木のかけらに残っている炭素14の量を測定し、土台に使われている木がどの年代のものなのかを推測。

炭素14法はパネル板の絵の下地にされた時期を特定するものではなく、材料となった木がいつまで成長していたかが分かる。肖像画に使われた木は1474年から1517年の間と特定された。

1481年、ダビンチはフィレンツェ郊外の修道院から『東方三博士の礼拝』の制作を依頼される。初の大口注文で、2年半の製作期間が与えられた。受け取る報酬には材料費も含まれ、特に重要なのは締め切り。

しかし未完に終わってしまう。

最近の修復により、ダビンチが描いたオジリナルの状態に戻された。

細部の豊かさや絶妙な構図が明らかになった。

ダビンチはひとりひとりの人物に動きを与えながら、見るものの視線を絵の中央にいる聖母子にいざなう。

驚くべき発見

絵の裏側を洗浄していた修復師のナポーリは、奇妙な文字列があるのを発見。

ダビンチの鏡文字

それは右から左へ反転した鏡文字で書かれ、左利きの人が得意とする技。ダビンチも左利きで鏡文字を使っていた。

解剖学や建築学、植物学などさまざまな分野の記録を残したダビンチ。自分の考察や経験などを生涯にわたって書き残し、数千ものページに鏡文字が整然と並んでいる。

PINXIT MEA(ピンクシット メア)とは、どんな意味なのか?

美術史教授のピーター・ホーエンスタット氏は、MEAというのは”私自身”、PINXITは”彼が描いた”という意味ではないかと思うがラテン語としていまひとつな表現だ、と。

ダビンチの文章は、ほとんどがトスカーナ地方の方言で書かれている。私生児だったダビンチは大学へ行けずラテン語は独学だった。

PINXIT MEAと書いたのは、それが理由なのか?

筆跡鑑定

イタリア南部のモンテフォルテ・イルピーノにいる筆跡鑑定の専門家シルヴァーナ・ユリアーノ。

鑑定は様々なサンプルを比較することから始まる。ユリアーノはダビンチの手書きのノート千ページ以上がまとめられている『アトランティコ手稿』の複製を調べる。

手稿の特定の文字に見られる細かい特徴を精査し、肖像画の裏に書かれた文字と比較したところ同じ特徴が確認された。

文字を書いたのがダビンチ本人だとすれば、肖像画はダビンチによって描かれたという可能性が高まる。

肖像画に描かれた男性は50代前半。ダビンチは1452年生まれ、この肖像画は1500年ごろの作品だと考えられている。

そのころ、ダビンチはミラノを離れる。ミラノ公国との戦争でルイ12世率いるフランス軍が攻め入り、ダビンチのパトロンだったルドヴィコ・スフォルツァが追放されてしまう。

ダビンチは修行時代を過ごしたフィレンツェへ戻ったのは1500年の春のこと。

その頃のフィレンツェはメディチ家の力が弱まり、新たなパトロン探しする必要があった。50歳にして1からのスタートとなったダビンチ。

昔の友人である画家のフィリッピーノ・リッピ(1457〜1504)が、自分が受けた祭壇画の注文をダビンチに譲る。

それが『聖母子と聖アンナ』であり、ダビンチが再びフィレンツェで名声を得るための足がかりとなった。

しかし、この祭壇画も完成することはなかった。下絵だけは描いたものの、現在では失われてしまっているとか。

ダビンチは『聖母子と聖アンナ』というテーマに生涯取り組むことになる。2枚の習作と、ルーブル美術館所蔵の油絵、そして木炭とチョークで描かれたデッサンが最初の下絵を想像させてくれる。

ダビンチ『聖母子と聖アンナ』ダビンチ『聖母子と聖アンナ』 ダビンチ『聖母子と聖アンナ』 ダビンチ『聖母子と聖アンナ』

ダビンチの下絵に感動した修道士たちが、その絵を公開するとフィレンツェ中の人々が押しかけたという。戦乱の世に不安を抱き、街の守護聖人である聖アンナに祈りをささげに来た。

 

残り、あと20分あります。ぜーぜー。頑張って、近いうちにアップします。