2017年10月に放送された『名画の暗号 ゴッホと北斎のミステリー』の自分用メモです。
長くなったので、今回はゴッホの部分だけとなります。
Contents
登場人物
登場人物 | |
オレ | イッセー尾形さん |
バー”CODE”のママ | アン・サリーさん |
版画家・多摩美術大学教授 西岡文彦 | ご本人 |
太田記念美術館 主幹学芸員 渡邉晃 | ご本人 |
あらすじ
古今東西の名画には巨匠たちの秘密の暗号が潜んでいる。番組の舞台は美術愛好家が、夜な夜な集まる架空のバー。お坊さんの姿をしたゴッホの自画像。いったいどこから描いたのか。なんとも奇妙な北斎の滝。彼らはどんなメッセージをこめたのか?イッセー尾形、片岡鶴太郎ら4人の奇才たちが熱く語る新説、珍説。飲むほどに酔うほどに、アートをめぐる愉快でオシャレな妄想がドラマとして展開していく。不思議なアートミステリー。
ゴッホ
壁のポスター
1いつも枚だけ美術展のポスターが壁に貼られているという設定。
今回は、東京都美術館で開催された【ゴッホ展 巡りゆく日本の夢】。
ゴッホと言えば?
この店の常連客は、めっぽう美術に強く半端ない想像力を持っているという設定(というか、本職の方々がいらっしゃるから、設定とか書いたら叱られそうだけど)
西岡さんは日本古来の伝統版画の数少ない継承者で美大の先生を。
渡邉さんは美術館の学芸員をしている浮世絵の専門家。
ゴッホといえば、オレの頭の中では『ひまわり』が思い浮かび
西岡さんは『自画像』
”坊主(ボンズ)としての自画像”1888年 フォッグ美術館蔵
渡邉さんも『自画像』
西岡「ゴッホというと”ひまわり”っていうのは名画中の名画なんですけど、やっぱりねぇ最大のドラマが隠されているのは自分を描いた自画像なんですよねぇ」
渡邉「僕も、そう思います」
オレ「あっそう。西岡さんのその(選んだ)自画像、僕知らなかったです」
西岡「これね”坊主(ボンズ)としての自画像”っていうんですよ。
一枚の絵のどこかには、画家がひそかに忍ばせた特別な暗号が隠されている。西岡さんが出してきた坊主頭のゴッホ。ここにどんな暗号が潜んでいるのか。
さあ読み解きが始まるぞ。
ゴッホ”坊主としての自画像”
画家としての新境地を求めてゴッホがやって来たのが南フランスのアルル。
そこで描いたこの”坊主(ボンズ)としての自画像”には頭を丸めた坊主頭の自分が描かれている。
ボンズ bonzはフランス語で、仏教の僧侶。この坊主頭にゴッホの暗号がありそうだ。
西岡「この坊主頭はね日本のお坊さんをイメージしてるんですね。日本の僧侶が理想だったみたいです。南フランスのアルルに来たのもそのせいでしょうね。南仏の明るい強い太陽の下で日本人みたいに暮らして、それで浮世絵みたいな絵を描きたかったんですよね」
オレ「寒いオランダからねアルルと言えば南の明るい太陽、それを求めていくっていうのは憧れるというのは分かりますよね。でもアルルっていえばね、やっぱしねえぇママ”アルルの女”?」
1888年2月20日に南フランス・アルルに到着したゴッホでしたが当日は、なんと雪が降っていたそうです。
西岡「ゴッホがアルルに来たのは、あれは勘違いですね。ゴッホは浮世絵を見て影がないのでびっくりしちゃったんですよね。浮世絵は陰影を表現しませんからね」
オレ「浮世絵は、どうして影ができないんですか?」
西岡「浮世絵というのは木版画でありますんで、彫ったところは絵が全然なくなりますし残ってるところはベターってなっちゃうんで複雑陰影は表現できないんですよ」
オレ「なるほどねぇ。でも実際の日本は四季がありますよね。夏なんかカッと日が照って強烈な明暗の強い影が出来るし、秋は何かこうそこはかとなく寂しいのが出来ますし。そういう風土ですよね、実際は」
西岡「だけどまあゴッホっつうのは、あの性格なんで浮世絵見て真に受けちゃってね。日本というのは影がないくらい日差しの強い国なんだと思い込んじゃったんですよね。その勘違いでアルルみたいな南仏の地中海の日照りの強いところに行けば日本の風景が見られると思いこんじゃったんじゃないですかねぇ」
オレ「それで、あの坊主の自画像は輪郭があって陰影がなくて、なにか平べったくてフラットな感じなんだ」
渡邉「浮世絵って基本的に人物とか物を輪郭線で囲って、平面的に色を塗るっていう”二次元的”なのが特徴ですよね」
オレ「それって漫画とかアニメもおんなじですね。人物輪郭で、背景ベタで。あれはじゃあ日本の伝統的手法と言ってもいいんですね」
西岡「そうなんですよね。日本の伝統的な手法の輪郭線と”ベタ”っていうのは、逆にヨーロッパ絵画ではタブーですからそれまで誰もやらないわけですよね。だけどゴッホみたいな自分の独自の絵を探している人にとっては、浮世絵の画風っていうのはある活路を見出したんでしょうね、そのなかに」
オレ「なるほどね」
小説『お菊さん』
西岡「もう1つのゴッホの勘違いっていうのは、日本人への思い込みでしょうねぇ。当時ピエール・ロチの”お菊さん”というベストセラー小説がありましてね。フランスの海軍士官が長崎に来て日本の女性と恋に落ちるっていう話なんですけど」
「これゴッホが読んで入れ込んじゃってアルルの女性を日本女性に見立てて描いた」
”お菊さん”に出てくる日本娘をヒントにして描いたアルルの少女。
一体どこが日本娘か?というと、この口元。この、ちょっととがらせたところが日本の娘。
オレ「ゴッホも、これはひょっとしてアルルでロマンスを期待してたかも」
西岡「それはありえますねぇ。何しろそれまで一度も彼は恋愛っていうのは恵まれてないですからね。ずっと失恋で振られてばっかりですし。アルルに来ても全然そういう関係に恵まれてないですからね」
西岡「あと、これはね絵かきとして結構ディープな話なんですけども。ゴッホは日本の絵描きが描いた一本の草とか枝の絵にものすごく感動してましてね、日本の絵描きは一本の草の中に自然のエッセンスを全部読み取るような、そういう哲学者みたいな絵描きなんだって、そういう思い込みを勝手にしちゃったんですよね」
西岡「ユートピアとしての日本をアルルに見立ててましたのでね、そこで草のように生きていくってのが彼自身が理想とした生き方だったんでしょうね」
ここで、渡邉さんの頭の中に一枚の肖像画が浮かんだ。
渡邉「このタンギー爺さんの絵の背景なんですけど、広重ですとか英泉といったゴッホが大好きだった浮世絵で埋め尽くされているんですよね。タンギー爺さん自身も、すごくゴッホにとって大事な人だったということで。この絵はゴッホの大切なものが沢山散りばめられた宝箱のような絵なんじゃないかなぁという風に思います」
西岡「そうですね。タンギー爺さんっていうのはパリの画材屋さんでね、売れない若い絵描きに絵の具とかキャンバスをあげるっていう私利私欲のない、それこそゴッホにとってはユートピアの住人みたいに映っていて一本の草のように生きることを理想にしたゴッホにとっては本当に理想の人格でね、日本のお坊さんみたいな人に映ってたんじゃないですかねぇ」
オレ「よっぽどお坊さんをお気に入りだったんだね」
西岡「この絵にしても真正面から描いてますよね。これは正面視(しょうめんし)ってやつでヨーロッパですとキリスト像や聖なる像にしか使われないですよね。その描き方で描いてるし、手なんかはやっぱり仏像のイメージですよね。ですからユートピアとしてのアルルに一本の草のようにして生きるゴッホの理想の生き方を、完全にこのタンギー爺さんに見出していたんじゃないですかねぇ」
”ひまわり”
一本の草、植物のようにというのならゴッホの植物は何と言っても”ひまわり”だろう。だけど、ゴッホの”ひまわり”ってなんだ?ひまわりは太陽を追いかける。太陽は神やキリストの象徴。ひまわりは祈りの姿だという。
ゴッホ自身がひまわりというのなら、太陽というのは誰なんだ?
西岡「これ(ゴッホにとっての太陽)はゴーギャンでしょうねぇ。ゴーギャンをリーダーにしてアルルに芸術家の共同体を作ることを夢見てましたからね。当人のゴーギャンの意向なんか関係ないわけで、ゴッホというのは自分がそう思い込んだら相手も同じように思っているに違いないという思い込みの強い人ですからね」
西岡「このゴッホの黄色というのは異常な黄色でね。当時としては本当に正気を疑われるくらい明るいんですよ。大体、一枚の絵がほとんど黄色だけでできているのが前代未聞ですからね。本当に白熱するような黄色ですね」
西岡「ゴッホはね”ひまわり”を浮世絵調にしたかったんですね。というのは絵の具に白混ぜますとね色がマット(つや消し)になりますよね。ですから油絵のツヤツヤの絵の具がマット調に見えるんです。そうすると日本画風と言うか浮世絵風の絵に見えるんですよね」
西岡「あらゆる絵の具にね白を入れてますんで、例えば赤はサーモンピンクになっちゃうし、緑はエメラルドグリーンに。そうすると配色が当時としては考えられないサイケデリックな色になる」
西岡「ともかく白を沢山使うもんで弟にね手紙で絵の具買ってくれって手紙出してるんですけど、弟が量間違えてるんですよね。ともかく白が非常識なぐらい多かったのでね」
その時、西岡さんの頭に絵が浮かんだ。ゴッホが異常に白を使うことに気がついた絵が、これだった。
西岡「実は、この絵なんですけどね僕が摺師の修行をしてやっと気づいたんですけど。絵の具にね大量の白が入ってるってことがやっと分かったんですよ。それまではゴッホは黄色のイメージがあったんですけど、摺師になって絵の具を毎日大量に練ってみたらですね、この色は白を混ぜないと出来ないんだと初めて分かったんですよね。ゴッホはね、あ〜浮世絵が描きたかったんだなというのが分かりましたね」
オレ「ゴッホの執念ですね。”ひまわり”を何とか浮世絵風にしたくて。この白を発明と言っていいんじゃないですか」
西岡「発明と言うより、これは苦闘でね。当時としては正気を疑われるような色なので、だんだん精神を病んでいくんですけど。後の手紙でね、自分の精神が壊れたのは”ひまわり”の黄色のせいだと。あとは、お酒をちょっと飲みすぎた、と。だからゴッホにとって”ひまわり”は正気をかけた戦いだったんですね」
ゴッホが心身の危機を懸けてまで命懸けで取り組んで描いた絵、それが”ひまわり”だったんだ。
炎天下のアルルで命を燃やすように”ひまわり”を描きながら、芸術家の共同体への夢も大きく燃え上がっていたに違いない。あとはゴーギャンの到着を待つばかりだった。
芸術家の共同体
オレ「そもそも、ゴッホの思い描いていた芸術家の共同体って何なんですかねぇ?」
西岡「これもねぇ、なんか思い込みじゃないですかねぇ。浮世絵って分業で作りますでしょ。絵師が絵を描いて、彫師が版を彫って、摺師が摺りますよね。多分、その話を聞きかじって日本では画家がね共同体を作ってお互いに作品を啓発しあってね、なんかそういう共同体のイメージを勝手に抱いちゃったんじゃないですかね。実際は、そんなこと無いんですけどね」
西岡「ゴーギャンっていうのは正反対でものすごく現実的な人ですから、そんな共同体には全く興味ないしアルルに来たのも、その日その日の生活費目当てなんでね。完全に、すれ違っちゃってますよね」
オレ「とことん勘違いの人だったんですねゴッホは。ゴッホの独り相撲?」
ゴッホとゴーギャンの共同生活、果たしてうまくいったんだろうか?ギクシャクした関係にならなかったんだろうか?
これなんか2人が同じ場所で絵を描いても、背を向けて反対にカンバスを置いて全く別の風景を描いている。
柄に対する考えも性格も違う。ケンカも絶えなくなったって言うしね。
オレ「ゴッホは、なぜかゴーギャンの椅子を描いてますね。でも人物はいなくて椅子だけ。椅子だけっていうのは、どうなんですかね?」
西岡「ゴーギャンとの共同生活が破綻する1ヶ月ぐらい前に描いているんですよね。どっかでこうゴーギャンがいなくなる、ゴーギャンの不在っていうのを何となく予感していたんでしょうね。ただ燭台に小さなロウソクが立っててね、小さな炎がか細い希望の象徴」
事件
オレ「そしてあれですね。自分の耳を切り落としてしまった」
西岡「そうですね。1888年のクリスマスイブ。ゴーギャンはアルルを去ってしまう。わずか2ヶ月の共同生活でした」
このとき、渡邉さんの頭にも、ある絵が浮かんだ。
渡邉「これは耳切事件の1ヶ月後に描かれた絵なんですよね。壁に浮世絵が描かれてます」
オレ「何かこう、これまで描いてた浮世絵と違って随分、何か貧相な感じがしますね」
渡邉「この浮世絵はですね、ゴーギャンが去って崩壊してしまったユートピアの夢の跡のようなものを描いてるんじゃないかな、という風に思っています。更に左のキャンバスが真っ白ですよね。これがまあ当時のゴッホのぽっかり心に穴が空いた状況っていうのを表しているのかなっていう風に思います」
西岡「この白地のキャンバスっていうのは彼がアルルに夢想していた共同体が白紙に戻ったっていう、そのことの象徴かもしれないですね。実際このあとゴッホはもう浮世絵を描かなくなっていますよね」
日本に憧れ、ユートピアを作ろうとしたゴッホの夢。それは理想と言うより妄想だったのかもしれない。
ゴーギャンが去った1ヶ月後に描いた”ひまわり”。
理想に燃えていた頃に描いた”ひまわり”を、もう一度懐かしむように模写したのだという。ただオレには、この”ひまわり”は跡形もなく消えてしまった自らの妄想の姿をかいたように見える。そしてゴッホは、これ以後二度とひまわりを描くことはなかったという。
ゴーギャンはゴッホと別れた2年後、ひまわりを描いた。
かつてゴッホが描いたゴーギャンの椅子によく似た椅子。肘掛けが、ひまわりを愛おしそうに抱きしめている。
最後に
オレ「ゴッホは日本の僧侶を哲学者と考えて自分で坊主頭になったり、アルルは日本だと勘違いしたり信じたんだね。日本こそ芸術のユートピアだと。これは勘違いだな。自分もユートピアを作ろうとして挫折して。思い込みの激しいと言うか勘違いの人だったって…そういう風にくくっちゃっていいんですかね?」
西岡「う〜ん、その勘違いが偉大な芸術を作ったのかもしれませんね」
渡邉さん「ちょっと皮肉な言い方ですけど、ゴッホはそうやって浮世絵に出会って日本をすごく勘違いしたからこそ逆に言えば今我々が不朽の名作を楽しむことができるっていうのも言えるんじゃないですかね」
個人的な感想というか反論というか
特にゲストのお一人と、まったくゴッホに対する思いが違うのが残念だったというか。
画家の好き嫌いはみんなあって当然だとは思うのですが……。
すべてにおいて”ゴッホの思い込み”という言葉で片付けられてしまったようで、とても残念でした。
人の信じた理想を”妄想”って決めつける言い方もハッキリ言えば不愉快でした。もちろん、個人の意見をハッキリ言うなということではありません。ありませんが、”思い込み”だと、ここまで何度もこき下ろす必要があるのでしょうか?
ゴッホは独自の絵を描きたかった、ということは常識的なこと、誰もがやっていることをやっていたら生み出せないと思ったからこそ、白い絵の具を多用したのではないかと個人的には思うのです。
共同体のことは、そういうシステムいいな、啓発しあう環境いいな、って本人が思ったんだから作ろうと思ったのかもしれないし。別に日本のシステムを勝手に誤解して、思い込みで作ったとは限らないですよね?それとも弟あてに手紙に、何か書いてあるのかしら?”思い込みじゃないですかねぇ”レベルだから、確定ではないんですよね??
”異常”とか”正気を疑うような”、という表現も個人的には好きではなくて、ゴッホが精神を病んでいく、もしくは病んでいたにしろ、作品が現代では評価されているのは彼の作品が時代を先取りしすぎていたからとも取れるのでは?”ゴッホの思い込み”だと思い込み過ぎなんじゃないかと、私は非常に残念に思いました。
だから、最後の最後で渡邉さんが「皮肉な言い方ですけど」とおっしゃったけれど、全然ゴッホに対する皮肉ではなくて、むしろその言葉が聞けて安堵しました。
自分が相当なゴッホ贔屓なのは分かっていますが、分かっていますけれども、ちょっと愚痴を書かずに入られませんでした。