新美の巨人たち”今こそアートのチカラを”第5弾『希望を与え続けてきたノートルダム大聖堂 復活への祈り』のメモです。
【ゴシック建築の「圧巻の美」】
次回は #今こそアートのチカラを
「#ノートルダム大聖堂」2019年4月に火災で損傷した華麗なる大聖堂が貴重映像で蘇ります🎥
コロナ禍の最新映像を交えた復活の物語💫🌟6月13日(土)よる10時🌟#テレビ東京 系列にて放送🌈#新美の巨人たち #要潤 pic.twitter.com/d94z1f8sjS
— 新美の巨人たち (@binokyojintachi) June 6, 2020
Contents
エピローグ
フランス・パリ。
2019年4月15日、世界が衝撃に包まれました。
あのノートルダム大聖堂が燃えている。パリの象徴だった尖塔も焼け落ちました。火が消し止められたのは9時間後。火災の原因は今も不明です。
しかし、希望は失われていません。
そこは過去にも破壊を乗り越えてきた奇跡の大聖堂なのですから。
これまで撮影した貴重な映像の中から、とっておきの美しい姿を。
14世紀、あのペストが蔓延したときも人々を支え続けた大聖堂の知られざる歴史とは?
ノートルダム大聖堂について
パリ、セーヌ川の中州シテ島に建っています。
ノートルダム大聖堂、悲劇が起きる前の姿です。
目を見張るのは、その大きさ。全長127メートル、高さは尖塔まで含めると約90メートル。
建物の細部まで12世紀に花開いたゴシック建築の壮麗な装飾が施されています。
去年の火災で倒壊した尖塔は19世紀につくりなおされたもの。天を突くように聳え立っていました。
大聖堂の象徴が2つの巨大な鐘楼。
写真は、こちらよりお借りしました。
中央には、ずらりと並ぶ28体の彫像。”王のギャラリー”と呼ばれ歴代のユダヤ王たちの姿ともいわれます。
中へ入ると、祭壇まで続く長い身廊と見上げるほどの高い天井。
写真は、こちらよりお借りしました。
薄暗い内部は深い森にも例えられます。ほら、立ち並ぶ柱がまるで樹木のように見えませんか?
こちらは最も奥にある内陣。ふだんは聖職者しか入れない特別な空間です。中央には処刑されたキリストを抱く聖母マリアの姿。
(外から)鐘楼を仰ぎ見ると、はじっこにちょこんと座る奇妙な像が。
【シメール Chimère】
悪魔から大聖堂を守る怪物です🔔#新美の巨人たち #ノートルダム大聖堂#NotreDameDeParis pic.twitter.com/XcfQeudUn5— 新美の巨人たち (@binokyojintachi) June 13, 2020
「シメール」という架空の怪物です。彼らはパリの街を睥睨(へいげい)し悪魔から大聖堂を守っているのです。
(ちょっと、あれですよね、見た目が…。私最初知らなかったから、むしろこれが悪魔なんじゃないかと思ってました。ごめんなさい)
知られざるノートルダム大聖堂 Part1
ノートルダム大聖堂は、これまで色んな人によって絵にされてきた。例えば、印象派の巨匠クロード・モネ。国民的作家のマルセル・プルースト(代表作『失われた時を求めて』)によるイラスト。
しかし、実はクロード・モネが描いたのはルーアン大聖堂。プルーストが描いたのはアミアン大聖堂。そもそもノートルダムという名前の教会が何百もあり、かつ大聖堂だけでもシャルトル、ルーアン、ランス、パリ、アミアンなど40近くはあるのではないか、と。
そもそもノートルダムという言葉そのものは、英訳するとOur Lady(聖母マリア)のことを指す。その聖母マリアに捧げられた教会堂というのがノートルダム。
マリアの名を冠した教会が、なぜこれほど多く建てられたのか?
答えはフランス激動の歴史の中にありました。
ノートルダムが多く建てられた理由
キリスト教がヨーロッパに広く普及したのは5世紀頃のこと。
以後、相次ぐ戦争や貧困に苦しむ民衆は聖母マリアに救いを求めるようになります。それはマリア崇敬(すうけい)となり各地にノートルダムという名の小さな教会が次々と作られていくのです。
パリ・ノートルダム寺院の建設開始
そして1163年、パリ・ノートルダム大聖堂の建設が始まります。当時のパリは、すでにヨーロッパ最大級の都市。それまでの教会はロマネスク様式とよばれ素朴で小さな作りのものがほとんどでした。
そこで当時のパリ司教モーリス・ド・シュリーは決意します。首都パリにふさわしい巨大な聖堂をつくる。そこで採用されたのがゴシック様式。全国から腕利きの職人が集められ難題に挑みました。
ゴシック建築では壁を高く広い空間を作ります。しかし、ただ石を積み上げるだけでは崩れてしまう。これを解決し建物の巨大化を可能にした当時の技術が大聖堂の裏手に。
写真は、こちらからお借りしました。
つっかえ棒のようなものが何本も見えるでしょう。フライング・バットレスとよばれる独特の構造です。その効果とは?
ゴシック建築は建物の外側にも梁をつけることで壁に働く外に広がろうとする力を押さえ込んだのです。
更に教会の建築はしばしば資金不足にも悩まされました。そこに救いの手を差し伸べたのがパリで暮らす市民たち。彼らの寄進を支えに200年の時を経て念願の大聖堂が1345年に完成します。
ペスト
ところがその直後、感染症のペストが人々を襲います。ヨーロッパ全土で3分の1もの人口が失われました。
一度に9000人の信者が祈りを捧げることのできる巨大なノートルダム大聖堂。疫病に怯える市民の不安を受け止め、復興への希望をつなぐ場としての役割を果たしたのです。
広々とした大聖堂の内部で、ひときわ目を引くのが大きなステンドグラス。
バラの花弁をイメージさせることからバラ窓と呼ばれています。
直径は約13メートル、1200年代中頃に作られた3つのバラ窓が薄暗い聖堂内をやわらかな光で照らします。実は、このステンドグラスに大聖堂のもうひとつの魅力が隠されていました。
ステンドグラス 光の秘密
パリ郊外に、いち早くステンドグラスを取り入れた教会があります。サン・ドニ大聖堂。ゴシック建築の内部に日の光が溢れています。
ロマネスク建築の教会は壁が厚く窓が小さいので薄暗いのが普通でした。しかしゴシック建築で天井を高くして大きな窓を作ることが可能になったのです。
そこでサン・ドニを建てさせた当時の修道院長・シュジェールが「神は光」である。光に満ち溢れた建築を造ると書き残しています。「神は光」であるということをステンドグラスで表現することがそこで初めて実現して大きく流行していくということになったんだと思います。
聖書に、たびたび書かれている言葉です。God is light 神は光である。
神を表すために生み出されたステンドグラス。聖書の教えを光の差し込む色ガラスを使って力強く伝えようと考えたのです。
サン・ドニ以降、各地の教会は競うようにステンドグラスを取り入れていきます。
13世紀、パリの中心部に造られたサント・シャペル教会。その内部は、精緻なステンドグラスが壁を埋め尽くしています。
写真は、こちらからお借りしました。
礼拝堂の主はフランス王ルイ9世(1214〜1270)。権力者が莫大な資金を費やした神の光。聖なる宝石箱とも呼ばれました。
一方。ノートルダム大聖堂のステンドグラスは、まったく違う魅力をたたえています。
暗くて、しかも巨大で、背が高い空間の中に入ったときに上の方だとか、あるいは一番奥の方から非がりが差し込んでくるのは相当衝撃的。当時の人からしたら本当に感動の空間だったのではないか。
そう、ステンドグラスの光に浮かぶ深い陰影が神の存在を際立たせる効果を生み出しているのです。聖堂内に3つあるステンドグラス。
北のバラ窓:旧約聖書の物語。中央に誕生したばかりのイエス・キリスト。周りには古代の預言者たちが描かれています。
南のバラ窓:新約聖書の物語。中央のキリストを取り囲むのは、その教えを広めるために選ばれた12人の使徒たちです。
西のバラ窓は……
知られざるノートルダム大聖堂 Part2
西のバラ窓に描かれているのは他では見られないパリのノートルダムならではの傑作。
「12の美徳」と「12の悪徳」。
人間が天国行きか、地獄行きかの判断基準。例えば、悪徳には”怒り”、”絶望”、”偶像崇拝”、”移り気”など。その外側に”忍耐”、”希望”、”信仰”、”堅忍不抜”の美徳。
犬も食わない夫婦喧嘩は”不和”で悪徳、外側には”調和”の美徳。
悪徳 | 美徳 |
怒り | 忍耐 |
絶望 | 希望 |
偶像崇拝 | 信仰 |
移り気 | 堅忍不抜 |
不和 | 調和 |
強欲 | 慈悲 |
反逆 | 従順 |
(上記のようなセットで描かれているようです)
華やかすぎず節度ある美しさで。パリ市民の信仰の支えになってきたノートルダム大聖堂。しかし、このあと激動の歴史に飲み込まれることになるのです。そして、あの英雄も登場します。
ノートルダム大聖堂 復活の物語
パリのシンボル・ノートルダム大聖堂。
18世紀、激動の歴史の中で激しく破壊されてしまいます。自由・平等・博愛。1789年にフランス革命が勃発。民衆は権力に立ち向かいます。
長い間、王権と結びついていたカトリック教会は攻撃の矛先となりノートルダム大聖堂も見るも無残な姿に。
パリにあるクリュニー中世美術館。展示されているたくさんの彫像は、すべて首が切られています。これは一体?
ノートルダム大聖堂の外壁にあったものはもちろん、教会内部にあったものも持ち出され壊されてしまったというのです。
フランス革命でほとんどの教会が閉鎖されました。ノートルダム大聖堂も修復されないまま長い年月放置されることになります。
しかし、あの英雄の登場で自体は一変。
『皇帝ナポレオン一世と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』ジャック・ルイ・ダヴィッド 1807年
フランス革命の混乱をおさめた英雄ナポレオンが皇帝に就任した式典を描きました。その舞台となったのがノートルダム大聖堂。
なぜナポレオンは大切な式典に荒れ果てていたはずのノートルダムを選んだのか?
当時、すでにフランス国民の多くがカトリック信者でした。パリの中心、ノートルダム大聖堂でおこなう戴冠式。それはカトリック信者の味方であると印象づけ、民衆の支持を得るうってつけの演出だったのです。
一方、ノートルダム大聖堂にとっても革命によって機能停止に陥ったフランス中の教会堂がノートルダムを中心として再び教会堂として使われていくのはナポレオンの時代。ナポレオンのおかげでノートルダム大聖堂は生き残れた、ナポレオンが大聖堂復活への道を拓いた。
ノートルダム大聖堂が今の姿によみがえったのは、一冊の大ベストセラー小説がきっかけでした。
1831年、ヴィクトル・ユゴーによって書かれた『ノートルダム・ド・パリ』。ノートルダムに住む鐘つき男のカジモド。背中にコブがあり蔑まれていたカジモドが、彼を助けた美しいジプシーの娘に心を寄せる悲しい愛の物語。
この本がたくさんの映画や舞台となり、このおかげで大聖堂の修復が始められた。
ユゴーが悲劇とともに描いたのは、市井の人々の生き生きとした暮らしぶり。それが大きな共感を呼びました。そして荒廃したノートルダム大聖堂を元の姿にという声が一気に高まります。フランス政府は、大規模修復を決定するのです。
かつて首を落とされた28体の彫像も、元の場所で美しくよみがえりました。
(なるほど!最初の方で紹介された”王のギャラリー”の28体だったわけですね)
1908年、きれいになったノートルダム大聖堂を見に行った日本の詩人・高村光太郎。
ノオトルダム・ド・パリのカテドラル、あなたを見上げたいばかりにぬれて来ました、あなたにさはりたいばかりに、
雨にうたるるカテドラル
再生のシンボル
今年5月30日。新型コロナウイルスの影響で止まっていた火災の修復工事が再開されました。
少しずつ暮らしが戻りつつあります。つらいときこそ存在感を増す建築です。
大切な人を亡くし悲しみに暮れる家族の希望。
懸命に働き、疲れ果てている医師たちの希望です。
ノートルダムがここにあることは大切です。彼らとともに喝采し鐘を鳴らすために。
パトリック・ショーヴェ主任司祭
再びパリの空に、清らかな鐘の音が響く日を心待ちに。
パリ・ノートルダム大聖堂。希望の光が世界を照らす。