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ぶらぶら美術・博物館 ゴッホ展 響きあう魂

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

2021年11月16日に放送されたぶらぶら美術・博物館は、東京都美術館で開催していたゴッホ展 響きあう魂 へレーネとフィンセントでした。

 

話は飛びますが、前からクレラー=ミュラー美術館のゴッホ作品は木枠も統一されていて素敵だなぁ!と思っていました。

もう1つ、色の濃い木枠も素敵なんですよねぇ。

 

 

へレーネとは?

今回のサブタイトルに入っているへレーネさんは、へレーネ・クレラー=ミュラーさんのこと。

オランダにあるクレラー=ミュラー美術館の創立者であり、ゴッホの世界最大の個人収集家。

ゴッホ美術館に次いでゴッホの作品がたくさんある美術館と言われている。

ゴッホの評価を上げた人物

37歳でゴッホが世を去るまでは不遇で、死後に評価が高まってきた。

そのゴッホの評価を上げたというか値段を上げた人の1人、というのが山田五郎さんの説明にありました。

学芸員の大橋さんによれば、へレーネはゴッホの評価がまだ今日のように確立していない20世紀初頭に収集を開始。

そして美術館を設立したいと言う夢を早くから持ち、1938年にオランダのオッテルローにクレラー=ミュラー美術館を開館。本物のゴッホ作品を見られる場所を作り、実際に作品を見ることで多くの人もゴッホの評価をすることができるようになった。

それなので、ゴッホ評価を作った立役者の一人言われている。

ちなみにファン•ゴッホ美術館は1973年に開館。35年前から開館したんですね。

どんな作品を購入したのか?

例えば1928年には132点を購入。総額f100,000(92,527,593円)

へレーネがゴッホ作品を購入することで市場も沸き立ち値段が上がっていくという部分もあるのだとか。

どんな性格だったのか?

へレーネが41歳頃の肖像画が展示されており、フローリス・フェルステルの作品(1910年)。

一見すると厳しそうな顔の表情をしている絵なのですが、へレーネ自身も「自分の性格が適切には描かれていない」と仰っていたとか。

子供の頃は両親が心配するほど勉強熱心だった、というエピソードも。

父は石炭と鉄鉱石を商うミュラー社を設立し大成功したため裕福な家庭だった。

へレーネの結婚相手は父親のビジネスパートナーの弟であったアントン・クレラーで、彼女が19歳の時の結婚。

アントンは商売上手だったようで、のちに”オランダで一番お金持ちの女性”とへレーネが言われた時期もあったとか。

へレーネを美術の世界へ誘った人物

H.P.ブレマーは、当時のオランダで”美術界のローマ法王”とまでいわれたぐらい力を持っていた人物。

すごいネーミングですね。

画家で、評論家で教師で、コレクターでもあったブレマー。

へレーネの娘さんの美術の教師だった縁で知り合ったんだとか。

娘さんが元々イタリア旅行の準備のためにブレマーの美術の講義を受けに行き、その話を聞いたへレーネが興味を持って自らも美術教室へ通うように。

へレーネが美術収集を始めたのは37歳頃だそうです。

ブレマー激推しの画家がファン・ゴッホで、のちにへレーネのアドバイザーになり一緒に買い付けも行き、長い間献身的にへレーネを支えていく。

ゴッホ以外の貴重な作品も来日

ポール・シニャック

新印象派のポール・シニャックの『ポルトリューの灯台、作品183』1888年

へレーネとシニャックは直接会ったことがあるそうです。

ジョルジュ・スーラ

『ポール=アン=ベッサンの日曜日』1888年

スーラは作品数自体が少なく貴重なんだとか。

ピート・モンドリアン

『グリッドのあるコンポジション5:菱形、色彩のあるコンポジション』1919年

オディロン・ルドン

『キュクロプス』1914年ごろ

一つ目巨人のことだそうで。

キュクロープス(古代ギリシャ語: Κύκλωψ、Kýklōps)は、ギリシア神話に登場する卓越した鍛冶技術を持つ単眼の巨人であり、下級神である一族である。 あるいは、これを下敷き及びベースとして後世に誕生した伝説の生物をも指す。

Wikipediaより

ゴッホについて簡単に

牧師の家庭に生まれる。

おじさん3人が画商で、ゴッホもその画商に勤めロンドン支店へ転勤に。しかし下宿の女性に恋をしてストーカーっぽくなってしまってクビに。(これ私が言ってるわけではなくて、山田さんの説明なので!)

帰国後、牧師になろうと神学部入学を目指すも断念。牧師見習いでベルギーの炭鉱へ行くも「お前やり過ぎで気持ち悪い」と言われてクビになったりとか(これも山田さんの説明のままですので!)。

弟のテオもゴッホと同じ画商で働いており、その弟の勧めもあって27歳のときに画家になろうと決意する。

最初に取り組んだのが素描。画家になるためにはそこをしっかりやろうと。

「この人、真面目なんだ。真面目すぎるんだ。真面目の方向性がおかしい」 by山田さん

画家になると決めてから3年間は、ほとんど素描に集中している。

ゴッホ作品

素描

『読書する老人』1882年11月ー12月

『防水帽を被った漁師の顔』1883年1ー2月

『スヘーファニンゲンの魚干し小屋』1882年

 

学芸員さん「晩年の激しい感じの絵が有名なので、どうしても激しい人のイメージはあるんですけれどもコツコツと地道に学んでいくような真面目な人でたくさん本も読みましたし努力の人だなと思います」

『コーヒーを飲む老人』1882年11月はオランダのハーグに住んでいた時の素描。
老人は当時のゴッホのお気に入りのモデル。近くの養老院に住んでいる人で、わずかばかりのお金を払ってモデルになってもらって人物画の練習を重ねていく。

しかし独学だったこともあり、椅子の遠近感やコーヒーカップが平面な感じもある。

ゴッホは自分で色々と試そうとして、このコーヒーを飲んでいる男性の周りにシミのようなものが。
この頃、ゴッホは色々な画材を試している時期で黒もいろんな黒を使っている。牛乳が定着液になることを本で学んだゴッホは、牛乳をかけると黒の光沢が増すことを発見。
しかし本に書いてある以上に牛乳を振りかけたゴッホ。それがシミのようになってしまったのだとか。

リトグラフ

今回の展示で唯一のリトグラフ

ジャガイモを食べる人々 1885年4月

ゴッホのオランダ時代で一番有名な作品。
いくつかバージョンがあり、ゴッホは複数の人物を組み合わせる絵を自分の代表作のような作品として描きたい、という思いを持っていた。

まず1点の油彩画を描く。(今回の展示はなし)

それを基にしたリトグラフが今回展示されていたもの。
リトグラフのあとに、もう一回完成作として第2バージョンの『ジャガイモを食べる人々を』描く。

↑こちらはファン•ゴッホ美術館所蔵。

ゴッホは作品の進捗状況を親しい友人や画家に伝えたくてリトグラフを作成して送った。

しかしラッパルトという画家からは人物の描写が下手だとか、手の長さとか散々指摘されてしまったそう。

手紙のしょっぱなから「お前、これ真面目に描いてるのか?」みたいな。「これでミレーを気取るつもりか?」みたいな。

でも皮肉ですよね。ラッパルトさんより、ゴッホの方が断然有名になって。あのゴッホの作品を見る目がなかったみたいな扱いになっちゃって(そうでもないんですかね??)

ゴッホは人生が刻まれたような顔がすごく好きだと言っていて、手紙でも「埃だらけでつぎはぎだらけの仕事着を着ている農民の娘は淑女よりも美しく見える」というようなことを書いているとか。

「民衆のための民衆の絵画を描きたい」といって近所の農民を描いて労働の尊さを表現するんだ、と思ってたようですが。描かれる農民たちは、それがうれしいか?というと…

本人はすごくよかれと思って頑張っているけれど、相手がどう思っているのかがわからない、そこが最大のゴッホの特徴だと山田さんは仰ってました。

せっかく絵に描いてもらうなら教会行く時のオシャレな洋服を着ているところを描いてもらいたいと思うのではないか?

学芸員さん「ゴッホ自身は農民ではないので、別の外からの視点なんですよね。ゴッホから見た農民のポイントの一つが、この(リトグラフの)場合だと手。ジャガイモを育てて掘った手で食べるっていう」

ゴツゴツした手を描かれ、いくら労働は尊いと言われても農民たちからは反感を買い、仕事の邪魔だし、そのうち農村の女の人を妊娠させたという疑いをかけられ、村の人がゴッホのモデルをしてくれなくなってしまった。

ゴッホ唯一の師匠

ハーグ派のアントン・マウフェは、ゴッホの従姉妹の旦那さんだった人。

灰色派ともいわれるほど灰色であったり、褐色とかそういう色彩で屋外制作をする人たちがハーグ派。

油絵を始めたばかりの作品が『麦わら帽子のある生物』1881年11月後半〜12月半ば

いろんな素材のものを掻き分ける訓練のような静物画。

私からすると、最初期でこれだけ描けるのってすごいんだけど……。

マウフェは絵をゴッホに教えるだけでなく画材を貸してくれたり、お金を貸してくれたりしていた。

しかし、そのマウフェとの関係も長くは続かなかった。

 

『祈り』1888年12月/1883年4月

祈りを捧げている女性の名前はシーン。娼婦で子供を連れ、当時妊娠していたこの女性を愛してしまうゴッホ。

子供を引き取り、生まれてくる子供の父親になると言い出したゴッホ。真剣に絵をやる、というからゴッホを教えていた師匠から破門されてしまう。

結局、彼女ともうまくいかなかったのか徒歩でフランスまで行き。実家のあるオランダのニューネンへ帰ってきてから農民の絵を描き始めたのが1884年。

ゴッホがアルルへ行った1888年、マウフェ死去。

その時に『花咲く桃の木(マウフェの思い出)』という作品をアルルで描いている。この絵は今回の展示にはありませんでした。

 

絵の左下にはSouvenir de Mauve(スヴニール ドゥ マウフェ)の文字。マウフェの思い出という意味らしいです。

最初、ゴッホはマウフェの奥さんに絵を送り。マウフェの娘さんが引き継いだので、娘さんからへレーネたちが購入したとのこと。

農民を描く

『女の顔』1884年11月〜1885年1月

『白い帽子を被った女の顔』1884年11月〜1885年5月

この帽子を被った女性は、先ほどの『ジャガイモを食べる人々』にも登場している。
本当は真っ白な帽子だと思われるが、うっすら緑色がかっている感じで描かれている。

ゴッホはドラクロワの「色彩理論」を熱心に勉強していた。実際にドラクロワの作品を見る機会はほとんどなかったと思われるが、ゴッホは本から学んでいく。

赤と緑、黄色と紫のように補色の関係、お互いを引き立て合う色があることを知る。
この絵の場合、顔や洋服は赤みがかっていて、帽子の部分が緑色がかっており引き立て合う色を意識している。

パリへ

1886年、農民を描けなくなったゴッホは弟テオのいるパリへ。

パリで画商をしていたテオと同居を始める。

パリでゴッホは日本の浮世絵の色彩、最後の印象派展、印象派を終わらせたとも言われているスーラやシニャックたちの新印象主義の点描などを一年ぐらいで吸収していく。

パリに到着し、自分の技法がいかに時代遅れだったかを知ったゴッホ。

一気に色彩も描き方も変わっていく。

『レストランの内部』1887年 夏

ジョルジュ・スーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』が描かれたのが1884ー1886年。

最後の印象派展に出品されている。

sunday-afternoon-on-the-island-of-la-grande-jatte-1886.jpg

アルルへ

浮世絵の明るい色彩にグッときたゴッホ、明るい光を求め南フランスのアルルに向かう。

そこで借りたのが黄色い家。

画家ゴーギャンと揉めたのか、ゴッホが耳を切ったのもアルルでのこと。

今回の展示ではファン・ゴッホ美術館からも4点出品されている。

ファン・ゴッホ美術館は弟テオ、その妻ヨー(ヨーは愛称で本名はヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲル)と息子フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホに引き継がれた作品を収蔵している。

『モンマルトル:風車と菜園』1887年3-4月

『ニューネンの牧師館』1885年9-10月

『サント=マリー=ド=ラ=メールの海景』1886年6月

 

『黄色い家(通り)』1888年9月

会場でこの絵を見た瞬間、なぜか涙がでてしまいました。
あまりにも有名すぎて、自分の目で見たのかどうかも忘れがち(??)な作品が。自分の目の前にある、ということに驚いてしまって。

ああ、自分がオランダへ行かなくても絵の方が来てくれるなんて、としみじみ嬉しかったです。

これだけの絵を貸してくれるというのは、やはり東京都美術館をはじめ関係者の方々との信頼関係があるんだろうなぁ、と。ありがたい。実に16年ぶりの来日だったとか。

見られてよかった、もし仮に16年後だったらもう美術館へ行く気力があるかどうか……?

 

芸術家たちと共同生活を送りながら、芸術家たちのユートピアみたいなものを願っていたゴッホ。

当時、ゴーギャンたちはブルターニュのポンタバンというところへ集まっていた彼らをアルルへ呼び寄せようとしていた。

5月に家を借り、改装を始め(すべてテオのお金)、食堂を飾るために描き始めたのが『ひまわり』。

キリストの12人の使徒のように12人の仲間が集まるかもしれないから12枚描こうとしたのではないか?という説もあるそうで。

アルルでゴッホに唯一優しくしてくれた駅の郵便係ルーランさんは、絵の右手にある鉄道のガードの先に住んでいたとか。

この黄色い家は第二次世界大戦の空襲で焼失。現在は案内板?があるのみだそうです。

アルル時代の絵は、黄色と青の補色関係が基本の1つになっているとか。

この絵は、まだ期待に満ち溢れているそういう時代の絵。

しかし誰もアルルへと向かう画家がおらず、テオは全部お金を出すこと、アルルで描いた作品は全部買い取るという条件を出す。

それで1888年10月、ゴーギャンがアルルに到着。

黄色い家の2階、向かって左側がゴッホ、右側がゴーギャンの部屋。

しかし2ヶ月後には耳切り事件が発生してしまう。

ゴッホの死後

ゴッホを追うように、翌年(1891年)亡くなってしまうテオ。

テオの妻ヨーは作品を故郷のオランダへ持ち帰り、オランダで展覧会を開催したり、ゴッホの手紙を整理し出版。

ゴッホの作品が○年□月に描かれた、というのが分かるのも手紙があったから。

そのヨーの開催した展覧会を訪れたのがへレーネの師匠ブレマーだった。

ぜーぜー、ようやく話が繋がってきましたね。

再びアルル時代の作品

『種まく人』1888年6月17-28日頃

ゴッホはミレーの伝記を読み、ミレーみたいな農民画家になって農民の暮らしを支えたいと思っていた。
この作品の「種まく人」は新約聖書のマタイにもマルコにもルカにも出てくる話で、種=神様の言葉。

それを蒔いても道端に落ちれば他の人に拾われてしまうかもしれない。石の上であれば根が張らない。いばらの中では伸びても実がよくつかない。

いい土地に蒔かれた種は100倍の実りをもたらす。だから神様の言葉でもちゃんと素直な心で聞かないと実を結ばないということらしいです。

学芸員さん「こういう風に麦を育んで芽吹かせて成長して収穫して、という一連の農作業を支えてくれる日の光というのがゴッホにとっては神にも等しい存在として、特にアルル時代になると大きく太陽を描いていく。

筆遣いも本当に特徴的で短く土のふわふわした感じを出す筆触と、麦畑の縦のライン、太陽から出る放射状のラインが迫ってくるような光の感じを出していますね」

絵を斜めから見ると絵の具の盛り上がり具合がすごくよく分かる。

サン=レミへ

耳切り事件後、ゴッホは同じ南仏のサン=レミにある療養院へ移る。

『サン=レミの療養院の庭』1889年5月

これはサン=レミへ移ったばかりの頃に描かれたもの。

最初の頃は外出が許されなかったので庭などを描いていたのだとか。

ゴッホは花を描くのも好きだった、この年の春は精神状態もあまり良くなかったため花の季節を逃してしまった。

しかし5月にサン=レミにきてみたら、まだ花も咲いておりゴッホは喜んで庭の絵を描く。

空いている部屋をアトリエとして使うことも許されたんだとか。

サン=レミ時代の方がアルルのときよりも短いタッチを繰り返すようになっていく。この絵の場合は画面右側。

左側の草むらは割と平坦で、その差があることで遠近感が生まれ奥行きのある画面がつくられている。

しかし、その後発作でほぼ寝たきり状態になってしまうゴッホ。

自分の過去の作品をセルフコピーをするようになる。

ハーグ時代に版画にした作品を基に油彩画で模写をしたもの。

ゴッホは快復したいという思いで療養院へ入るも思うように回復せず、そういう自分の感情をこの嘆き悲しむ男性に重ねていたのかもしれない。

この作品は、へレーネの夫アントンが結婚25周年を記念してプレゼントしたものだとか。

25周年を祝うモチーフとしては、個人的にはあの、ね。花の絵とかの方が個人的には嬉しいかな、いや、ま、それはいいか。

と思ったらファンタン=ラトゥールの『エヴァ・カリマキ=カタルジの肖像』という作品とセットでプレゼントしてるんですって。

えっと。

いやいやいや、セット??ま、いっか。

ファンタン=ラトゥールはマネたちと仲が良かった画家で印象派展にも出品してたんだとか。

今回の展示では『静物(プリムローズ、洋梨、ザクロ)』1866年が展示されている。

へレーネはラトゥールの絵をとても気に入っていたそう。

で、先ほどの『永遠の門』の基になった版画をへレーネが好きだったので旦那さんは油彩画バージョンをプレゼントしたとのことでした。なるほど。

へレーネの手紙には「驚いて気を失いそうになりました。世界一高価な真珠のネックレスをもらったとしても、これほど幸せではなかったでしょう」と書き残しているんだとか。

旦那さんの愛、めっちゃ伝わってますね。良かった、良かった。

16年ぶりの来日『糸杉』

『夜のプロヴァンスの田舎道』1890年5月12-15日頃

サン=レミへ移ってから本格的に糸杉に取り組んだゴッホ。たくさん描かれた糸杉の中で、この糸杉が最後に描かれた作品であり、かつ、南フランス滞在中に描かれたものとしても最後の作品であり、まさに集大成といえる。

糸杉を挟んで三日月と、かなり輝く星。

この作品が描かれた前月に三日月と金星と水星が並ぶ天体現象があったようなので、それを基に描かれたのではないか、と。

田舎の夜はかなり暗く、風景を見て描くのは難しいと考えられる。

元々ゴッホは実際に目で見たものを描くスタイルだったが、ゴーギャンと暮らし”記憶”と”想像”を駆使することを学んだので、そういった成果も込められた作品でもある。

プロヴァンスの風景ながら、家はオランダにあるような家であり色んなものを組み合わせて描いている。

この作品は、へレーネが自分のコレクションを展示する美術館を作ろうと決意したときに購入したもの。

美術館設立まで

1911年 へレーネは美術館をつくる決意をする

1912年 パリでゴッホを大量購入。そのなかの1枚が『糸杉』

1914年 第一次世界大戦
ミュラー社は大儲けするも、のちに経営危機

1928年 コレクションの散逸を防ぐために財団を設立

1929年 世界恐慌

1938年 コレクションを国に寄贈し美術館を設立
当時69歳だったへレーネが初代館長に就任

開館時の写真は、こちらで見られます

1939年 へレーネ死去

クレラー=ミュラー美術館は広大な国立公園の中にあり、もともとその土地も夫妻が持っていたものだったとか。スケールが大きい。建物を建てるお金は国から融資してもらったようです。

あれ、そういえば生前に絵が売れることはほぼなく、遺族にたくさんの作品が残されたはずなのに。

1912年に大量にへレーネが購入できたとは、これいかに?

遺族が売りに出した作品をポチポチと買い集めていった、ということなのかな。

それにしても、美術館設立を見届けるように亡くなってしまうなんて。まるで兄を慕ってこの世を去ったテオのようだよ。ううう。

他人から見れば裕福な家庭で、子供にも恵まれ、なに一つ不自由のない生活を送っているように見えたへレーネ。しかし、彼女のなかにある満たされない部分を埋めてくれたのがゴッホの芸術だった。

彼女は自分の心のよりどころとなった美術を多くの人々と共有しようと思って残りの人生ほぼ全てを美術品の収集と、美術館設立のために捧げた。

 

東京都美術館の公式ツイート

 

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