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『天空の宗教都市 高野山』書き起こし

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

 

2020年3月に放送された『天空の宗教都市 高野山』を書き起こしてみました。聞き間違いや変換ミスなどあるかもしれません。ご了承下さい。

 

エピローグ

標高1000メートルを超える紀伊山地。その深い森のなかに私たち日本人が1200年にわたり祈りを捧げてきた場所があります。

高野山。

弘法大師空海が開いた真言宗今日の聖地です。苦しみからの救済、仏への祈り、様々な思いを胸に人々がこの地を目指してきました。

2004年、世界文化遺産に登録されてからは海外からの旅人にも大人気。いま、日本で最も注目されている場所のひとつになっています。

 

そこは空海が作り上げた深遠なる仏教の世界。宇宙のすべてを表すという不思議な立体曼荼羅に、日本美術の粋を集めた至宝の数々。

織田信長に武田信玄、あの超有名人たちの縁がここにもあそこにも。

見えてくるのは空海がこの地に聖地を作った秘密と、絶えることのない深い信仰心です。

いざ、天空の宗教都市 高野山へ。癒やしと不思議の詰まった旅に出発です。

 

今回紹介するエリア

和歌山県の北部に位置する高野山。実は山の名前ではありません。標高800メートルほどにある盆地の呼び名です。

人口は3000人あまり。そのうち、およそ1000人が僧侶という日本を代表する宗教都市の1つです。

今回ご紹介するのは、主に3つのエリア。

① 数々の仏教施設が残る壇上伽藍(だんじょうがらん)

② 高野山真言宗の総本山・金剛峯寺

③ 空海の御廟がある奥の院

壇上伽藍

壇上とは道場、伽藍とは僧が修行する静かな建物・場所。つまり修行道場を意味します。

西暦816年、嵯峨天皇から高野山を与えられた空海はまずここに修業の場を作りました。数ある建物の中でも最初に断てられたのがこちらの金堂です。

僧侶が一同に集まるような大きな行事は今でもここで行われています。本堂に収められた仏像は仏師・高村光雲の手によるもの。

不動明王など真言密教の世界で重要とされる仏が祀られています。

本堂の左右には一対の曼荼羅。胎蔵曼荼羅は数多く描かれた仏のうち中心に配置されているのが大日如来。宇宙の始まりを現し真言密教では最も重要とされています。

曼荼羅は複雑な密教の教えを絵で表現したもの。胎蔵曼荼羅は宇宙のあらゆるものが大日如来に通じていることを示しています。

反対側にあるのが金剛界曼荼羅です。こちらは9つのエリアに分かれて描かれています。釈迦が悟りに至る過程や人々を救済する過程を現しているとされています。

壇上伽藍には空海が真言密教のシンボルとして建設を進めたものがあります。

根本大塔(こんぽんだいとう)です。高さ48.5メートル。当時としては空前の巨大建造物で、建設には半世紀以上要しました。設計も空海自身が行ったとされています。

塔の中には空海、そして真言密教の真髄とも言える世界が広がっています。五体の仏像と、16本の柱に描かれた菩薩。曼荼羅の世界を三次元で表現した立体曼荼羅です。

中央に鎮座するのは真言密教で最も大切な仏、大日如来。それを取り囲む4つの仏も大日如来の化身とされています。そして16本の柱に描かれているのが十六大菩薩です。菩薩とは悟りを求める人のこと。人々とともに苦しみ、手を差し伸べてくれる存在です。

空海は立体曼荼羅を通し複雑な密教の世界観を人々に感じ取ってもらおうと考えていたのです。

金剛峯寺

全国に信徒1000万人を誇る高野山真言宗の総本山です。

主殿は、もともと豊臣秀吉が母親の菩提を弔うために建立したもの。門の提灯には、今も豊臣家の家紋が描かれています。

建物のなかには日本美術の至宝の数々が残されています。

梅の間の襖に描かれているのは徳川家の御用絵師・狩野探幽作『梅月流水』。月夜に咲く梅の花が描かれています。江戸時代、大名を通じ多くの絵師が高野山を訪れ優れた作品を残していきました。

柳の間の襖に描かれているのは江戸後期の絵師・山本探斉による『柳鷺図(りゅうろず)』。こちらも狩野派の作品です。

実は、この柳の間では歴史上の大事件が起きています。

時は戦国時代末期の1595年。天下は豊臣秀吉のものとなり、その養子・秀次が後継者と目されていました。

ところが、秀吉は突然、秀次を高野山へと追放。切腹を命じるのです。秀吉に実子が生まれ、秀次が邪魔になったのがその理由と言われています。

この事件を機に、豊臣家は大きく揺らいでいきます。歴史の大舞台となった一室です。

 

金剛峯寺には1200年にもわたり、この地で信仰が受け継がれてきた秘密を感じられる場所があります。台所です。

これだけ広い台所があるのは多くの僧侶たちがここで修業を続けてきたことの証。江戸時代には5000人以上の僧侶が高野山で修行を行っていたと言われています。

その規模を示すのが、こちらのお釜です。”二石窯(にこくがま)”と呼ばれています。当時、この3つで2000人分のご飯を一度に炊くことができたそうです。もうこの窯は使われていませんが、今でも金剛峯寺には多くの若者達が下宿し、空海の教えを学んでいます。

そして彼らは厳しい修行を終えると日本各地へ赴き教えを人々へ伝えます。こうして1200年にもわたり絶えること無く信仰が受け継がれてきたのです。

 

奥の院

高野山の中でも特に神聖とされる特別な場所です。

深い杉林に囲まれた、およそ2キロの参道。その一番奥に空海が今も祈りを続けているとされる場所、弘法大師御廟があります。

参道を取り囲む杉の巨木。参拝者がお供えに植えていったのが始まりで、樹齢は古いもので600年にもなります。

空海が御廟に入った入定(にゅうじょう)以来、人々は人生の悩みや願いを空海に聞いてもらおうと御廟を訪れるようになりました。

参道沿いに並んでいるのは供養塔。5つの石を積み上げた独特の形から五輪塔と称されます。平安時代から建てられ続け、その数今や20万基。奥の院は”天下の霊場”とも言われています。

五輪塔は石を積み上げた巨大なものだけではありません。足元に並べられているのは、”一石五輪塔(いっせきごりんとう)”。
石を削り五輪塔をかたどったものです。石を積み上げた大きな塔は、庶民にはとても作れません。それでも空海の側で眠りたいと願う人々が小さな手作りの塔をこうして置いていったのです。

高野山大学 木下さんは「壇上伽藍はどちらかというとお坊様たちの信仰の拠点なんですね。奥の院の場合はどうかといいますと、ご覧の通り石塔がいっぱいあります。お坊さんだけじゃなくて一般庶民の人たちがお大師さんにすがってらっしゃる場所という風に考えられたらいいと思います。空海さんは自分が入定してからどうなるか、というのはある程度分かってらっしゃったのではないかと思うんですよ。だから今のような奥の院になることは想定してらっしゃったんじゃないかなと思います。だから自分は亡くなっていないんだ、ここにいるんだよ、という所にしたかったんじゃないかな、と」。

入定からおよそ1200年。人々は空海の存在を感じながら暮らしてきました。

御廟に向かう最後の橋、御廟橋。

みな、空海に会うために一礼し心を整えます。

橋の先は高野山の中でも聖地中の聖地。立ち入っての撮影は禁止されています。

これ(紀伊国名所図会)は江戸時代に描かれた図会。手前に灯籠堂という大きな建物があり、御廟はその奥にひっそりと建っています。

それほど大きな建物ではありません。豪華でもありません。ひとひとりが祈りを続けるのに十分な建物となっています。御廟のなかに入ることは、もちろん許されません。建物の前に立ち、空海の祈りに思いを馳せて下さい。

高野山を開く時、空海が語ったとされる言葉が伝えられています。

虚空(こくう)尽き
衆生(しゅじょう)尽き
涅槃尽きなば
我が願いも尽きん

世界が無くなり、すべての命が亡くなり、あらゆる人が悟りに達することがなければ、私の願いは終わらない。

つまり空海は世界の終わりまで人々の救済と幸せを祈り続けると語っているのです。

人生に迷う時、新たな一歩を踏み出す時は、この地に立ち寄ってみて下さい。ここは天空の宗教都市・高野山。空海の祈りが今も鳴り響きます。