テレビ番組

アート✕ドラマ『シーボルトのカメラだった男』

2020年3月に放送されたアート✕ドラマ『シーボルトのカメラだった男』についてのメモです。

番組概要

鎖国時代の日本にオランダからやって来たシーボルトは、未知の国の姿をヨーロッパに伝えるべく、1人の絵師に日本の全てを写し取らせる。彼の名は川原慶賀。慶賀はシーボルトの要求に応えるうち、まるでカメラのような正確な描写をするようになる。幕末、数奇な運命に巻き込まれていく二人のドラマと、日本を世界に伝えた珠玉の美術品の数々が交差するアート・エンターテイメント!

 

江戸東京博物館で2016年に開催された【よみがえれ!シーボルトの日本博物館】展が大変おもしろかったので、この番組を楽しみにしていました。

 

番組の内容

屏風の発見

江戸時代に描かれた屏風がライデン国立民族学博物館で発見された。描かれているのは幕末の長崎の風景で、1年半をかけて修復。

修復するにあたり、博物館では寄付を募っていたようでその画像がこちらです

修復を手掛けたのは京都の職人さんたち。

職人さんがヘッドライトを使って作業をされていたのですが、こちらかしら。ベルトの部分は白だったんですけど。

ま、それはさておき。

この屏風を描いた画家の文字味は繊細なテクニック、修復も細かく行われたそうです。

修復家の方は「やはり緻密に描かれていますね。人物人物ひとつひとつの影を時刻まで分かるぐらいに緻密に描かれているのが興味深いと思います。また建物もそうですね、線一本一本がすっごく綺麗に描かれているんです。それが非常に興味深いと思います」。

川原慶賀

屏風の作者

屏風を描いたのは川原慶賀(かわはらけいが)。江戸時代、日本の姿を世界に伝える役割を果たした人物。

慶賀の特徴はカメラで撮ったかのような正確な描写。その画期的なテクニックを必死に身につけたのは、ある一人のためだった、と。

 

シーボルト

鎖国をしていた日本にオランダから派遣されたシーボルト。長崎の出島を拠点に調査を行い、ヨーロッパに初めて本格的に日本を紹介した人物。

今も彼が収集した2万点を超えるコレクションがオランダに残されており、そのなかに川原慶賀が描いた魚などの絵が残っている。幕末の日本でシーボルトが写真のような絵を求めたのは何故なのか?

川原慶賀とシーボルトの出会い

日本が開国する31年前の1823(文政6)年、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが長崎出島にあるオランダ商館に赴任。

シーボルトに課せられたのは日本の自然や、人々の暮らしなどあらゆる情報を集めオランダに送ること。日本との交易を推し進めるために情報が必要だったそうです。

しかし日本で写真が撮影されるのは、まだまだ先のこと。そこでシーボルトは自分の希望する通りに絵を描いてくれる人物を探すことに。

川原慶賀は長崎出島に出入りするのを許された、ただ1人の絵師。10年ほど前からオランダ人に独占的に絵を描き、何でも描き、筆が速い。

主にお土産として絵の注文を受け、ヨーロッパにない浮世絵的な筆使いが人気だったとか。しかしシーボルトが求めたのは写実的な絵。影の向きや、絵のなかに書かれる文字までもすべて正確に描いて欲しい、と。

焚き火の近くにいる人が焚き火の方向に向かって影がのびていたり、お墓の戒名に「淫好助兵衛」だの、190歳まで生きたことにしちゃったりだのいい加減なことを書いてはダメ、ということのようです。

川原慶賀の師匠

しかし遠近法などを使った西洋的写実的な絵を、いきなり描けと言われても慶賀さん可愛そう。ということで、シーボルトはオランダへ手紙を書き、ヨーロッパ人の画家が呼ばれたそうです。

彼の名はデ・フィレニューフェ。

フィレニューフェ夫妻の絵が、こちらだそうです。

結果として、この人が川原慶賀の師匠になったそうです。

神戸市立小磯記念美術館の館長・岡氏によりますと、「写生をするようなことが慶賀では物足りないという風にシーボルトは考えたわけですね。博物学とか動物とか、それから魚とか色んな植物とかそいういうものを迫真的に描くという風なトレーニングがされてないわけで。デ・フィレニューフェは、それの見本を彼に見本を示したんだろうと思います。」

川原慶賀の絵

川原慶賀の絵の多くには年号が書かれておらず、描かれた時期が分からないそうです。しかし植物学者の大場さん(東京大学名誉教授)が見ると、デ・フィレニューフェと出会ってから劇的に上達したのが分かるそう。

例えば「サトザクラ」はデ・フィレニューフェに出会う前に描かれたと大場さんが推測する1枚。

桜の繊細な美しさが描かれているように思えるが、植物学者の目で見ると「う〜ん」となってしまうとか。

「多くの植物画は正面から花を描く、というのが必ずやる点なんですけど正面から描かれた花というのは(この絵の場合)たった1個しかない。その他の花はどうなのかというと、ほとんどが横から見た花なんですけど、ほとんど差がないですね。だから、こういうのは沢山描かれていても情報としては1つしかない」

なるほど。

デ・フィレニューフェの指導を受けて描いたと思われるのが「ジャケツイバラ」。

「これは軸の先端の部分に沢山の花をつけるんですが、花は下の方から上の方へ咲いていくという特徴もよく示されています」

「葉っぱの場合は、対になってついているか、互い違いになってついているか、とか。先端の部分、先端の葉っぱってあるのかないのか、とか非常に正確にこれはなかなかのものだと思います」

そこまで正確性を求めた理由

川原慶賀からすれば、ありふれた動植物や日本の暮らしですが。海外からは日本に熱い視線が注がれていた、とか。

18世紀のフランス王妃であるマリー・アントワネットは日本の蒔絵細工がお気に入りだったようで、番組内ではギメ東洋美術館所蔵『獅子牡丹蒔絵太鼓形沈箱』が紹介されていました。

日本にも『籠目栗鼠蒔絵六角箱』が2016年に開催された【マリー・アントワネット展】で展示されたようです。

2018年に三菱一号館美術館で開催された【ショーメ展】ではギメ美術館所蔵の『硯箱』が展示されていましたね。なんでもショーメ創業者のマリ=エティエンヌ・ニトさんはマリー・アントワネットの所有した貴重品を鑑定するメンバーだったとか。この方が蒔絵を保存するべきだと鑑定したとか。もし、そうでなければ今ごろどこにあるか所在不明だったかもしれませんねぇ。

そもそも、日本が海外に知られるようになったのは

13世紀、マルコ・ポーロが謎の国ジパングを伝えたのが始まりで。17世紀にはヨーロッパの宗教画に日本人が登場するそうです。

こちらの資料の5ページ目の左下にある絵をご覧ください。タイトルは『豊後大名大友宗麟に拝謁する聖フランシスコ・ザビエル』byアンソニー・ヴァン・ダイク。ドイツのヴァイセンシュタイン城所蔵。

左側がフランシスコ・ザビエル、そして!西洋人のような右の方が大友宗麟!キリシタン大名として知られる人物とのこと。

大友宗麟

日本に残る大友宗麟の絵。うむ。だいぶ違うようです。

日本への感心は高まっていたものの、まだまだ謎に包まれていたそうです。

18世紀、ヨーロッパではドールハウスが人気を集めたそうです。世界中から集めた美術品や調度品をミニチュアにしていたなかに、日本の屏風や、着物のようなものをまとった男性の姿も。

話は飛びますが、2021年1月13日〜3月7日、東京国立博物館で【ジパング 世界と出会った日本の美】という特別展が開催される予定だそうです。

日本でも世界を知りたい!という熱が

シーボルトが日本に来て翌年1824年に開いた鳴滝塾。日本中から集まった塾生たちが西洋の学問を学んでいたそうです。

シーボルトは塾生たちに日本についてのレポート課し、情報収集していたとか。のちに江戸で蘭学塾を開く高野長英は3年で19ものレポートを提出。そのうち1つはお茶について、だそうです。

そしてシーボルトも江戸へ行くことになり、川原慶賀を一緒に行くことに。

シーボルトは「画家としては慶賀が随行した。長崎出身の非常に優れた芸術家で人物画や風景画もすでにヨーロッパの手法を取り入れている」と書いているそうです。

約2ヶ月描けて江戸へと向かったそうです。その間、川原慶賀は109人の当時の日本人も描いたとか。浴衣を来て肩に手ぬぐいをかけてる男性とか、全身に入れ墨している男性とか、とか。

江戸でのシーボルト

江戸で幕府高官である高橋景保(オランダ名:グロビウス)に接触したそうです。彼は幕府の地図作成の責任者だったとか。

1826年、日本の詳細な地図、江戸城の地図などが欲しかったシーボルトは高橋から地図を入手。しかし、この情報が外国にわたると港の位置が分かり攻撃されるリスクが高まる。

幕府は地図を渡した高橋を死罪、川原慶賀は長崎に戻ってから奉行所からきつくお叱りを受け、シーボルトは国外追放。

その後のシーボルト

日本を追放されても、研究を諦めていなかったシーボルト。

長崎に残る同僚に「日本の魚類のすべてを写生することを提案する。川原慶賀の確かな手腕と日本の鮮やかな絵の具は自然や実物の美しさに負けないであろう」と。

オランダへ帰国し日本研究の集大成として全22巻の『NIPPON』を出版したシーボルト。日本を学術的に紹介した初めての研究所。挿絵の多くは川原慶賀の絵を元にしたもの、だそうです。

川原慶賀はシーボルトが去ったあとも、オランダの人たちから絵の注文を受けていたようです。その1つが冒頭の屏風『長崎港図屏風』。

いつ、だれが発注したのかは不明。しかし、この屏風は見たとおりには描かれていない、と。軍事的なこともあり正確には描かなかったのだろう、と。

ドイツにあるシーボルトの子孫の家。日本に黒船が来航する1年前に、ペリー遠征隊の一員だったテイラーという人がシーボルトへ送った手紙があるそうです。

「ペリー遠征隊は大砲230門を装備している。もし最終的に武力が必要なら遠征隊は日本を圧倒するだろう」。

つまりペリーが日本を攻撃する可能性があった、ということ。これに対しシーボルトはペリー遠征隊や他国に日本への武力行使しないよう訴えたそうです。そのおかげもあったのかどうかは定かではないものの、ペリーが日本へ武力行使することはなく1854年に日米和親条約締結。

その半年後の1854年9月16日のグリーソンズ・ピクトリアルというアメリカの新聞が日本を特集。川原慶賀がシーボルトのために描いた絵が使われているそうです。

慶賀の晩年

慶賀の晩年は謎に包まれているそうです。

1859年にシーボルトが再来日しているときに、もしかしたら、もしかして2人は再会したかも??

自分の絵が、世界に広められているなんて川原慶賀はどう思っていたんでしょうねぇ。いまいち、実感沸かないなぁって感じだったかもしれませんが。

 

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