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『2時間でまわる法隆寺』その①

※ 記事内に商品プロモーションを含んでいます

2016年1月に放送された『2時間でまわる法隆寺』。

先日再放送があるというので嬉しくて予約しました。

本放送が途中からしか見られず残念に思っていたので嬉しかったです。

なお、情報は番組内で紹介されたままを書いているので現在とは相違があるかもしれません。ご了承ください。

また記事内で使っている写真は、私が実際に法隆寺で撮影してきたものを使用しています。

 

ところで、なぜ2時間?

日本人が観光地で過ごす平均時間が約2時間なんだそうです。

番組内ではプロの写真家おすすめの写真撮影スポットも紹介してくれるとか。

法隆寺とは

日本で初めて世界遺産に登録され、国宝の数は38件。1つの寺社仏閣でこれだけあるのは法隆寺だけ。重要文化財153件。

寺のシンボルである五重塔、玉虫厨子、ルーヴル美術館にも展示された百済観音。そして法隆寺と縁が深い聖徳太子の霊廟・夢殿がある。

敷地は五重塔を囲む四角い部分だけでなく、東西600メートル、南北300メートル。面積は東京ドーム4つ分。

仏教の教えで乱れた世の中に平和をもたらそうと考えた聖徳太子によって1400年前に建てられたと言われている。

 

ルート

国宝25件、距離にして1.5キロの法隆寺2時間ツアー。

南大門

門前の松並木を抜けると見えてくるのが法隆寺の玄関口である国宝・南大門。この門を見れば法隆寺が当時の流行の最先端を走っていた寺だということが分かる。

国宝No.1 南大門(なんだいもん)室町時代

反り返る屋根の軒先は”軒反り(のきそり)”といい、仏教の先進国である中国で流行していた形。

昔の中国では、空を飛べる鳥を神聖視しており鳥に少しでも近づけるように翼を広げた形をイメージしてこの形にしたんだとか。

それを日本でいち早く取り入れたのが法隆寺。

ここでの写真ポイント、それは南大門手前から見る五重塔&手前の建物(中門)が見える景色。

五重塔へ続く参道の両サイドの壁

壁に使われている技術は、中国の万里の長城、日本では吉野ヶ里遺跡でも使われている。

近づいてよく見てみると、うっすら層になっているのが分かる。

まず両サイドに板を立てて、その中に少しずつ土を入れて固める。それを何度も繰り返して壁が作られている。ミルフィーユのように見えるのは、そのため。

そして両サイドに立てられた板の木目までもが残っている。

手水舎(ちょうずや)

 

法隆寺の手水舎

まず手を清めます。

国宝No.2 中門(ちゅうもん)飛鳥時代

南大門と同じく屋根の”軒反り”が特徴。

中門の見どころは、金剛力士像。現在、日本にあるもののなかで最も古く1300年以上ここに立ち続けている。

口を「あ」の形に大きく開いた阿形(あぎょう)像、口が「うん」の形になっている吽形(うんぎょう)像。

ここから先が法隆寺にとって一番大事なところなので、災害や”はやり病”など寺に災いをもたらす悪霊から守る役割がある。どんな悪霊でも撃退できるよう鍛え上げられた腕や胸の筋肉、浮き出た血管などを見ることができる。

像はもともと粘土で作られていたが、のちの補修で木とドッキング。どちらの像も一見すると分からない補修の仕方がされている。

そして中門が門なのに人が通れない理由。

それは戦後復興が進み余裕が出てきた昭和30年代。全国各地の観光地に大勢人が押しかけ、法隆寺の中門も混雑するように。そこで出口と入口を新設し一方通行にしたため中門を通さないようになった。

働くひとについて

大体100人ぐらいの人が携わっており、うち仏門に入って修行するお坊さんが13人。残り80人ぐらいがスタッフとして働いている。

入場チケットの販売や警備、清掃などを担当。

 

西院伽藍(さいいんがらん)

国宝No.3 金堂 飛鳥時代

金堂に法隆寺の真髄が詰まっている。

法隆寺 金堂

法隆寺のなかでも最も豪華に造られているのは、内部には法隆寺で最も大事な本尊があるから。

2階建てながら、実際に使われているのは1階だけ。より豪華に見せるために、2階部分をあえて造ったと考えられている。

江戸時代の修理で追加された柱の飾りは伝説の生き物である竜。建物を豪華に見せる効果だけでなく、水を司る水竜を飾ることで火災から守ろうという願いが込められている。他にも獅子や象などの彫刻が施されている。

法隆寺の獅子

手すりに見える高欄(こうらん)は、仏教にゆかりのある卍を崩した形であることから”卍崩し(まんじくずし)”と呼ばれている。

法隆寺の高欄

一階部分の屋根は二重になっており、下の屋根を”裳階(もこし)”という外観を華やかにする目的と雨や風が金堂の中に入り込まないようにする目的もある。

金堂は現存する世界最古の木造建築物で建てられてから1300年以上。裳階と石の土台が重要なパーツであり、石の土台の上に建物を造ることで雨や湿気で柱が腐らないようにしている。これは法隆寺以外でも使われており、世界でもまれな長持ちする木造建築を生み出した。

金堂内部は入ることができ、仏像13体を見ることができる。

国宝No.4 釈迦三尊像 飛鳥時代

真ん中にいらっしゃるのが釈迦如来坐像で、日本に仏教を復旧させた立役者・聖徳太子がモデルと言われている。全てを見通すようなアーモンド形の目に、人々の声を聞き漏らさない大きな耳。そして口元には穏やかなほほ笑み。頭と両膝を結ぶと二等辺三角形に収まる安定した形をしている。

完成したころは、金色に輝いていたので現在もところどころに金が残っている。(画面ではCGで当初の姿を再現していました)

天井からは金属細工が施された天蓋がさがり、柱の上には優雅に楽器を演奏する人たちや伝説の鳥・鳳凰の姿も。壁には空を飛ぶ飛天(ひてん)の姿。

金堂を取り囲む壁画には理想郷が描かれている。この金堂は夢のような極楽浄土を目にすることができる場所だった。金堂だけでなく法隆寺全体が仏教のバーチャル空間とも言える。

古代の人々にとって戦乱や、はやり病、天変地異などはコントロールできない恐ろしい出来事。そんな時代に人々が安らぎや希望を見出す場所として聖徳太子が造ったのが法隆寺。

国宝No.5 四天王立像 飛鳥時代

日本最古の四天王像で、本尊を守っている。後に作られた四天王像と比べて厳かな表情をしているのが特徴。日本に数ある四天王像のなかでも珍しく直立したような姿で作られている。

四天王像が踏みつけているのは邪鬼。戦乱や飢饉、疫病などを象徴している。

文化財保護法

法隆寺で最も大事な建物である金堂で火災が発生したのは昭和24年のこと。全焼は免れたものの内部の壁画や屋根が焼け落ちる大惨事。

翌年、文化財保護法が制定される。

大切に守られて1993年、日本初の世界文化遺産に登録された法隆寺。決め手となったのは現存する世界最古の木造建築郡があること。そして仏教文化が日本に定着する際に重要な役割を果たしたこと。

(実際、金堂は金網が張り巡らされているので、その隙間から覗くような感じでした。望遠鏡持っていけばよかったなぁ)

国宝No.6 五重塔 飛鳥時代

金堂のすぐ隣に立つ五重塔。

高さ34メートルの五重塔は釈迦の遺骨・仏舎利を安置するために建てられた建物。

五重塔と言われるが屋根は6つ、それは金堂と同じで五重塔にも一番下の層に雨よけのひさし・裳階(もこし)がついている。裳階は法隆寺から全国のお寺に派生していった。

その極致とも言える建物が薬師寺の東塔。一見6層あるように見えるが実際は3層。下から1つめ、3つめ、5つめの屋根は裳階。

 

法隆寺の五重塔には、より高く、より安定して見せるための仕掛けが施されている。屋根の軒が上に行くほど小さくなっている。

法隆寺の五重塔

一番下と比べて最上階の屋根は幅が70%しかない。上の方が小さいので どっしりとした安定感を感じさせつつ、下から見上げると実際よりも高く見える仕掛け。

4層目と5層目の間に立つ支柱を見てみると、力士をかたどった彫刻が支えている。

1層目と裳階の間にも力士が。

手で柱を支えているものもいれば、頭で支えている力士も。

五重塔は数々の軒の下の力持ちたちによって支えられている。

江戸時代には外部からの援助を受けて修理が行われた。その名残が塔の最上部にある家紋。江戸時代、法隆寺に多額の援助を行ったのが徳川家だった。

生類憐れみの令で有名な五代将軍・徳川綱吉。その母・桂昌院(けいしょういん)が法隆寺の修繕に熱心に取り組んだ。その時、法隆寺に寄進したのがこのエリアの中心に立つ灯籠。

法隆寺の灯籠

三つ葉葵とともに桂昌院の実家の家紋も並んでいる。

法隆寺の灯籠

法隆寺は境内にお墓がなく檀家もいないため、修繕は寄付などで賄ってきた事を表してもいる。

国宝No.7 五重塔塔本塑像 飛鳥時代

五重塔の内部には粘土で作られた彫刻・塑像(そぞう)がある。塑像とは今で言うところのフィギュアのようなもの。

塑像は東西南北4面あり56億7000万年という途方もない時間を描いた物語になっている。

東面にあるのは維摩詰像土(ゆいまきつぞうど)。聖徳太子が大好きだった維摩居士(ゆいまこじ)。とても勉強熱心で頭がいい人だったと伝えられている。もうひとりは文殊菩薩。智恵を象徴する仏様。

維摩居士は頭がいい人だったが会う人会う人を問答でやりこめていた。そんな維摩居士がある日、病にかかってしまう。そこに文殊菩薩がお見舞いにやってきた。お見舞いとは言え、問答好きの2人なので自然とバトルが発生。東面には2人の天才が激突した問答の場面が描かれている。表情豊かな維摩居士と冷静な表情の文殊菩薩。

 

北側には釈迦が亡くなる場面を表現した涅槃像土(ねはんぞうど)。釈迦の死を嘆き悲しむ弟子たち。ある者は天を仰ぎ、ある者は胸を叩きながら泣き叫ぶ。

 

西側には分舎利像土(ぶんしゃりぞうど)。釈迦が亡くなって7日目。荼毘に付された釈迦のもとに諸国の王が集まっている場面を描いている。

 

南側には弥勒仏像土(みろくぶつぞうど)。釈迦の死から少しだけ時間が飛んで56億7000万年後。釈迦が人々を救うために弥勒如来となって現れ説法を行っている場面を表現している。仏教の世界観は未来永劫ずっと続くということを言っているのかもしれない。

五重塔は釈迦そして仏教の偉大さを周囲に広めるためのランドマークだった。

五重塔は完成時、超高層建築物。その目立つ外観は祈りの対象になっていた。祈りの塔、五重塔ならではのものがある。それは礼拝石(らいはいせき)。

かつて五重塔には限られた人しか立ち入ることができない時代があった。そんな時、五重塔を訪れた人はこの礼拝石に座って祈りを捧げた。

金堂前にも同じように礼拝石が鎮座している。

 

長くなったので、一度ここで〆させていただきます。