今回は在原業平と男の友情から『伊勢物語』を紐解くそうです。
Contents
100分de名著とは
一度は読みたいと思いながらも、手に取ることをためらってしまったり、途中で挫折してしまった古今東西の“名著”。
この番組では難解な1冊の名著を、25分×4回、つまり100分で読み解いていきます。
〜公式ホームページより〜
そう、そうなんです、名著とは分かっていても、ついねぇ。難しそうだと思って。
『伊勢物語』についての放送の内容
第1回 “みやび”を体現する男 |
平安初期を代表する歌人・在原業平。彼の和歌には「みやび」が満ち溢れているという。彼は一体、どんな人物だったのか? |
第2回 愛の教科書、恋の指南書 |
業平は様々な女性たちと浮名を流した稀代のプレイボーイ。なぜ、そんなにもモテたのかは和歌に秘密があるとか。 |
第3回 男の友情と生き方 |
業平は男性たちからも愛されたという。出世争いとは無縁な業平と、なぜ交流を結ぼうとしたのか。 |
第4回 歌は人生そのもの |
出世争いからはずれ、難局にも立ち向かうことになる業平。彼はどう生き抜いていったのか? |
テキスト
第3回 男の友情と生き方
指南役: 高樹のぶ子さん
5年の歳月をかけ、2019年に小説を発表。
『伊勢物語』の世界を業平の一代記として小説化。
『伊勢物語』から学ぶ友への心の寄せ方
在原業平は生涯出世に恵まれなかったが、交友関係は広くその和歌の才能によって場を和ませる優しさを持ち合わせていた。
『伊勢物語』には実在の貴族が登場し、業平との暖かな交流が描かれている。そこから友への心の寄せ方を学ぶ。
業平の友人関係
業平が行きた時代の人間関係は”歌”を介しており、理屈を言い合うのではなく情を共有するものだったという高樹さん。
「そこに生まれてくる男同士のある種エロス的な友愛っていうものがあっただろうという風に思っています」
業平の友人関係は主に3人。
1.紀有常(きのありつね)
2.源融(みなもとのとおる)
3.惟喬親王(これたかしんのう)
紀有常
紀有常(815〜877)は業平の妻の父、いわば舅。
『伊勢物語』では、紀有常のところへ行った業平のことが書いてある。紀有常がなかなか外出から帰ってこなかったので、
君により思ひならひぬ世の中の人はこれをや恋と言ふらむ
待って待って待たされて、待たされるという思いにも慣れてしまった。世の中では、これを恋と言うのでしょうか。みたいな意味のようです。
親愛の情をウィットを効かせて”恋”と表現した業平。
それに対して有常は
ならはねば世の人ごとになにをかも恋とは言ふと問ひしわれしも
世の中では何を恋というのか、以前あなたに問うたことがある。そんな私があなたに恋を教えるだなんて違うのでは??みたいな。
川辺で宴会をしたときに、天の川という川の名前に重ねて業平が歌を
狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原にわれは来にけり
狩りをしていたら日が暮れてしまった。今晩の宿を織姫に借りましょう、天の川という河原に来ているのだから、と。
有常は
一年にひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ
織姫は一年に一回くる彦星を待っているから宿は貸してくれないだろう、と。有常は生真面目なんだそうです。素直で浮世離れしたところがあり、それが仇となって経済的に困窮してしまうのだとか。
有常と長年連れ添った妻が出家することになった時も、貧しくて何も持たせてあげられなかったんだとか。そこで業平は有常の代わりに衣を送ってあげたそう。
衣というのは貨幣経済が出来上がる前は経済的なサポートでもあった。なぜなら衣は布にもどすことで物々交換もできるから。
業平は婿の立場でありながらも衣を送ったのは、恩着せがましくなく素直にできる間柄だったからではないか、とのこと。
紀氏は昔からある家柄で、有常の妹・静子は文徳帝の第一皇子である惟喬(これたか)親王を生んでいる。
惟喬親王は皇太子になるはずだったが、勢力を伸ばしてきた藤原氏の女性との間に生まれた子が皇太子になってしまう。
おそらく、業平も似たようなバックグラウンドを持っていたから非常に分かり合えたのではないか、という高樹さん。
「権力に敏感な人は上に対しても下に対してもそれなりの態度をとってしまう。業平という人はそういうことのない人なんですね」
源融
賀茂河のほとり、六条のあたりに風流な邸宅を構えていた左大臣・源融。
のちに世阿弥が、『伊勢物語』のエピソードをもとに名作『融』を生み出す。
嵯峨天皇の息子として生まれた融(822〜895)。歌の才能と容姿に恵まれ、のちに書かれた『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルとも言われている。
しかし天皇には子供がたくさんいたため、臣籍降下を余儀なくされる。本来ならば天皇になれるはずだと莫大な財力と強力な個性を放って時に強引に自らの欲望のままに生きようとした。
その象徴が通称”河原院”の豪邸に作られた陸奥の塩竈に見立てた庭。
この庭の素晴らしさを讃えようと歌を詠んでいたときのことが、『伊勢物語』に書かれている。
身分の卑しい見苦しい姿格好の老人が、あちこち動き回り、最後に歌を詠んだ。
塩竈にいつか来にけむ朝なぎにつりする舟はここに寄らなむ
老人は実は業平だった。
帝のお后候補・高子(たかいこ)との恋に破れ、東下りに身を落とした業平。その後、都に戻った業平はプライドが傷ついたまま。
しかし融の誘いに乗り、みすぼらしい老人の格好をして現れる。まるで自らを蔑むことで場を和ませる道化のよう。歌だけでなく、パフォーマンスも加え友人に最大の賛辞を送る。
高樹さんは「一説によれば天皇になれないことへの鬱憤のエネルギーが、こういう造園をさせた、と。趣味を超えた異常な執着で、海水を入れて海の魚を泳がせたという、執念みたいなものですかねぇ。当時みんな鄙(田舎)に憧れていて、そっち(田舎)に行って味わうのではなく都のど真ん中にとんでもないお金をかけて味わうという、ここが本当に贅の頂点だろうと。あの時代にも、そこまでのいろんなことに忖度しないで貫けたということはすごい人で業平から見たら憧れもあったのではないでしょうか。身分もかなり高い立場でしたからね」
伊集院さんは、融はやってもやっても結局は届かないものに対して虚しさが生じて、業平の芸術を見た時に憧れや嫉妬を感じるんじゃないか?と。
そこに高樹さんも激しく同意されていました。
惟喬親王
惟喬親王(844〜897)は、第2回に登場した恬子(やすこ)の兄。主従関係を超えた和歌を通じた心の交流があった。
惟喬親王に誘われ、春の花見に参加した業平の一句。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
主催である親王を囲み、身分別け隔てなく花を愛で歌を介して心を寄せ合う穏やかな時間。このうたには、そんな時が過ぎるのを惜しむ気持ちが込められている。
惟喬親王は第一皇子として生まれながら、天皇への道を奪われた悲運の人。当時、絶大な権力を誇っていた藤原良房の強引な策謀により本来なるべき親王に代わり生後8ヶ月の惟仁(これひと)親王が皇太子に選出される。
惟仁親王の母親は、あの高子。
惟喬親王は政治の表舞台を引退し、出家。このとき業平48歳、親王は29歳だった。
正月になると雪ぶかい小野の地に親王を尋ねる業平。例年ならば参賀の人の出入りで賑やかなはずが打って変わった様子。
思へども身をしわけねば目離れせぬ雪の積るぞわが心なる
親王のことを思っているが、都での勤めもありなかなか小野へ来られない。今日このように雪が積もっているのは、京都へ帰らずずっとお会いしていたいという自分の心の表れでもある、雪が自分の身を親王の側に閉じ込めてくれればいいのに、という感じの意味だそうです。
業平の歌に感動した親王は、着ていた着物をその場で脱いで業平に贈ったとのこと。
高子さんは「自分が着ていたもの、まだ体温が残っているものを脱いで業平に下したということは、そこに体のぬくもりを感じる身体的なものがあるというふうに感じています」。
伊集院さんは、雪の風情だけでなく冷たさ、寂しさというものをぎゅ〜って歌に入れるすごい能力だと感心されてました。
お花見のときに会った美しさ、あたたかさ。現在の冷たさ、切なさみたいなものが全部入っている、とも。
私は、この2句を知ってはいたものの、結びつきを知らなかったもので確かに対比してみると、よりこの歌の切なさが感じられますね。
プロローグ
高樹さんは「男同士の関係にも白黒ではなくって、やはり微妙なニュアンスの交流があって歌というものを交流関係に使っていく」と。歌は女性を口説くときだけでなく、男性同士の交流にも生かされていた、と。
伊集院さんは、歌の文字数は決まっているのに業平の手にかかると色んな事が込められるすごさを語っていらっしゃいました。そして、歌に込められたことが伝わると信じて詠み、相手に伝わって歌が返ってくるという関係性は最高の友情ではないか、と。
いよいよ次回で最終回。
多くの歌を残した業平。最期に彼は何を思ったのか?を探っていくそうです。